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【 大野英章の“如蓮華在水”】

佐賀県小城市の日蓮宗寺院『仙道山勝嚴寺』副住職
佐賀・唐津・福岡市城南区・大分・別府の空手道場『白蓮会館』九州本部長

黒帯とは、もちろんその所属する道場が課す昇段科目を修得している、というのが条件ですが、それは当たり前のこと。

逆に言えば、空手以外のなんらかのスポーツをやってた人など、やたらポテンシャルの高い人が、1ヶ月くらい昇段科目だけを詰めてやり込めばすっかりできてしまう場合もあるかもしれません。しかし、それができたからと言って安易に黒帯を授けていいのかと言えば、やはり違和感があります。


例えば書道の場合、美しい文字を書くのが目標ではありましょうが、美しいと言われるお手本の文字を寸分違わずトレースする技術を磨いているわけではありません。
そういう能力に長けた人を書道の名人と呼ぶのかと言えば、絶対そうではない。そのお手本はあくまで数ある選択肢のひとつであり、もしそのお手本とされる文字だけが絶対ならば、活版印刷は達人です。書くたびに文字が微妙に違うなどというアナログな事故は起きないし、文字列が曲がることも起きない。

初心の者に対しては、お手本と呼ばれるものを模範として、ある程度それに近い作品を仕上げることを求められているのは事実です。この書道に於ける最低限の模写の能力が、言わば空手に於ける昇段科目修得みたいなもので、こういう技術・能力は黒帯としての必須の条件ではあるが、充分条件ではない。

では、それ以外の黒帯の条件とは何か。

このことを言ったわたくし本人はすっかり忘れていたのですが、先日、白蓮会館九州本部の有段者だけで懇親会をした席で、次に誰を昇段させるかの話になった時に、黒帯にする際の主観的な基準を思い出したのでここに書き留めておきます。



かなり昔、とある人に、ウチの道場生Aをそろそろ黒帯にしませんかと言われ、その場でその提案を跳ね返したことがあります。

『えー。Aが黒帯?まだダメだよ』

『なぜですか?Aはひと通りなんでもできるし、経験年数もそこそこですが』

『だってAはさ、日々の暮らしの中で空手の優先順位を一番にしたことないもん』

わたくしは別に、空手の為に融通の利かない仕事を辞めろとか理解のない嫁と離婚しろなどとは言いません。
しかし、その自分の生活のフレームの中での空手の順位が低い人には黒帯は渡せない。

黒帯は、空手をただの習い事のひとつだと捉えていてはいけないと思います。
試合で勝つ為に、どうすれば勝てるかを必死で考え、道場の稽古に行く為に残業を断って職場の同僚に迷惑を掛けながらも道場に行く。そして翌日、空手の稽古のために開けた仕事の穴を必死に埋める。道場の稽古のない日は自主トレをしたり、出稽古に行ったりしてみる。
せっかくの休日も空手の練習に充てる。

ヒマさえあればその時間を空手に使うのです。
いや。生活の中にヒマを捻出してその時間を空手に使うのです。

そう。生活の優先順位の一番が空手なのだという日々を送ったことがあるかどうか。



てなことを当時わたくしは言ったらしく、わたくしは忘れていたのにウチの有段者は良くそれを覚えていて、
『いや。やっぱ黒帯の条件って常にそこでしょ』
と言っておりました。

わたくしは支部長ですから、なんやかんやもう25年も空手を続けております。
だからと言って他に仕事をお持ちの道場生に
『おまえも空手が一番という生活を5年以上やれ』
とは言いません。
過去の実績のある名選手でも、現在引退して全く空手と関わっていない人もたくさんいらっしゃる。

期間はそんなに長くなくてもいいのです。
ただ、振り返って、あの頃はとにかく空手一筋だったなぁと思える生活を全く経験したことない人が、いったい空手の何を後進に伝えられるだろうか。

あなたの空手人生に、全力で空手に打ち込んだ、強くなることに全てを捧げた、そんな輝くような瞬間があったかどうか。
白蓮会館九州本部では、昇段審査の受験を許可する際、
『あなたの人生で空手が一番大切だったことはあるか』
を評価したいと思います。


スポーツと武道の違い、という議論され尽くした議論がありますが、わたくしが思うに武道というものは、何かの修得の為に試行錯誤するという過程そのものを目的にしているのではないかと考えております。

仕事もスポーツも極力無駄を省く。
普通はなんでも、できるだけ短距離、短時間で目的地にゴールすることが求められます。

しかし武道では、その無駄を敢えて経験することすらも価値がある。

だから『道』が付いてるのでしょう。
ゴールすることが目的ではない。
ゴールを目指して道を歩むことそのものが目的だから、歩かずにゴールしても武道としてはあまり意味がない。
挑戦して失敗して、それで反省して、対策を打ってまた挑戦する。

武道とはそういうものだと思っています。

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2月10日は日蓮宗大荒行堂が終わり、100日の荒行を終えた修行僧が再び娑婆世界に戻ってくる日です(わたくしの誕生日でもあります)。

日蓮宗大荒行堂の修行日課は、極端に短い睡眠時間と食事制限の中で寒水を浴し、長時間の読経をすることが中心で、それはそれは肉体的に苦しい修行なのですが、時折それを他宗派の方から
『釈尊は苦行を否定されたのに、釈尊の教えに刃向かうように日蓮宗は大荒行と称して苦行をやっているのはいかがなものか』
と批判されることがあります。


しかし、わたくしはその批判は違うと思う。


わたくしは、この荒行を経験したことで、冬の水は冷たいのだ、腹が減るのは苦しいのだ、ということを初めて知ったのです。

この事実は荒行に行かなかったら今でも知らなかった。

もちろん荒行なんか行かなくても、誰だって冬の水が冷たいことくらいご存知です。
しかし、わたくしは荒行堂で、その極めて当たり前の情報を、大いなる感動を伴って、改めて受け取ったのです。


わたくしは戦中戦後の食糧難の時代を経験しておりませんが、知識としては知っています。
だから、そんな時代を生きてこられたお年寄りに
『へぇー。それはさぞかし大変だったでしょう』
と共感する振りをするだけならいくらでもできます。

しかし逆に、そのお年寄りはわたくしがいくらしかめ顔を作って相槌を打っても、本当に共感してもらっているとは思っていないでしょう。


なぜか。


わたくしには智恵が足りないからです。


日蓮宗大荒行堂の設立の精神はいろいろありますし、ここで修行をしようという僧侶の目的もきっとさまざまです。

わたくしは、そんな日蓮宗大荒行堂でなぜ修行するのかと言えば
『非日常を経験するため』
という重大な目的があると思っております。
非日常の時空の中で、とにかく感動しなければならない。


『知識』と『智恵』は違います。


なんの感動もなく、自分に入ってきた情報は『知識』。
感動を伴って自分に入ってきた情報は『智恵』。

感動といっても、怒り、悲しみ、喜び、痛み、なんでもいいのです。
智恵はやがて生きる力となります。


このところの大規模自然災害で、被災者が避難所での生活を余儀なくされているのは皆様もちろんご存知でしょう。
しかし、それが本当にどれほどまでにつらいものなのか、われわれにはわからない。
われわれが持っているのは、被災者も大変だね、というただの知識です。

しかし被災者は智恵を得た。
身近な人をなくす、財産を失う、故郷を追われるという強い感動を伴って、その辛さがどれほどまでに辛いことかという自然の智恵を得た。

その智恵はただテレビを眺めているだけではわからないのです。


非日常を経験することによって、普通に暮らしているだけでは得られない智恵のかけらを、自然界のいたるところから手に入れることができます。
日常とは、それが日常であるがゆえに感動がない。感動がないから佛の智恵は見えない。

少なくとも荒行堂は、人工的に作られた第一級の非日常の結界時空です。だからそこらじゅうに感動があります。わたくしも、他の修行僧も、少しは結界の時空の中から自然の智恵かけらを持って帰ってこれたのではないかと思っております。

ほんと卑近な例ですが、荒行堂もわずかばかりの期間とはいえ、修行僧の誰もが、全くプライベートのないところで集団で雑魚寝をしながら、暖房器具もない共同生活を経験することにより、テレビを観るだけではわからない、被災者への思いやりの領域が増えたはず。

現代社会に於いては、本当に腹が減る経験はなかなかできません。荒行堂だって断食こそしないまでも、それでも娑婆では経験できなかった空腹の恐ろしさを知った。

朝6時の水行の時の、せいぜい氷点下2度くらいの寒さ、たかだか15分ほどの裸の時間を体験したことにより、先の大戦で海に放り出されて命を落とした海軍の皆様がどれほどまでの苦しみを経験されたのか、シベリアに抑留された日本人の皆様の御労苦がどんなものだったのか、その小さなかけらを得られた


もちろん全てを共感することなんて当事者じゃないと不可能です。

しかし、われわれは自然の智恵のかけらをいただいた。
ゼロにどんなに大きな数字をかけてもゼロのままだったのが、自分の体験が0から1となり、少しの臨場感を持てることによって、その体験につながる話を掛け算することで、その大きさの想像をさせてもらうという入り口に立てます。共感する領域を大きくできるようになるのです。

当事者じゃなきゃわからんなら佛には誰もなれない。
佛の智恵は自然界にバラバラに存在していて、それをありがたくいただいて己の智恵の完成を目指さなければ、ひとつも佛道を歩んでいけない。

佛道の入り口がどこかすら知らなかったら問いかけすらできない。問いかけなしに答えなんてない。答えを求めない世界は愚痴の世界です。

そうやって改めてこの世界を見直してみると、今まで共に暮らしてきた家族も、この我が家も、町も、社会も、また違う景色に変わる。
そうすると、これまでの行いの智恵によって、また新たな問いかけが始まります。本当の学びです。
その問いかけの答えを探すべく、再び修行に励む。
それを繰り返すのが菩提への道。


おそらく釈尊が否定された苦行とは、バラモン教の輪廻転生思想の下、現世で肉体を苦しめることによって罪業を軽くし、来世に少しでも良いステージに生まれ変わるための苦行であり、そんな修行は無意味だと断ぜられたのではないでしょうか。
わたくしの知る限り、日蓮宗大荒行堂で来世もっといいところに転生しますように、という目的で修行しに来ている僧侶はいません。

我々僧侶は、いや、別に僧侶には限りませんが、我々佛弟子は、常に『行』『学』の二道に励まねばなりません。

『学』がなければ問いかけが始まらない。

『行』だけを重ねても、問いかけがなければ感動がない。

知識という言葉に似ているために錯覚されやすいのですが、『学』によって智恵が完成するのかと言えば、そうではない。必ず『行』があり、知識と、感動体験のふたつが揃って初めて『智恵』がようやくひとつ完成するのです。
荒行の期間だけでなく、日々昼夜常精進です。
 

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ここ数年で絶滅したかと思われていた、試合に負けて戻ってきた子供を殴る親を、久しぶりに間近で目撃しました。

ちょうどウチの選手の2試合前だったので、なんとはなしにその試合をずっと見ていたのですが、両者とも素晴らしい選手で、拮抗した内容のほんといい試合でした。

負けた子供が戻ってきた直後、父親とおぼしき男性が
『なんじゃいまのは!!!』
とバッチーンとビンタ。
そして髪の毛を掴んで体育館の端っこに引きずっていきました。


いやー。実に寒かった。


隣にいたウチの選手のお父さん
『先生、あーゆーのは普通にあることなんですか?』

『いえいえ。10年くらい前までは結構いましたけど、ここ最近はほとんど見なくなりましたねー。僕も久しぶりに見ました』

『ああ、そうなんですね。いやーびっくりしましたよー』


そこそこの家族の関係性の中のことなので、他人がどうこう指図するなと言われるかもしれませんが、客観的に気分が悪くなる光景です。


で、なぜ気分が悪くなるのか考えてみました。


おおむね、子供に暴力を振るう親は、本人の力の及ぶ範囲以上の結果を求めていないだろうか。
9.0秒でしか走れない子供に、今すぐ7.2秒で走れと命令しても、できないものはできない。


そもそも子供が試合に負けたことは罪なのでしょうか?

『ごめんなさい。次は勝ちます』
という約束をもし子供に取り付けたとしても、子供はその約束を次回、忠実に履行できるでしょうか?

これは子供の意志でどうにかなる範囲外の、明らかに無理な要求ではないでしょうか?


まず怒るべき場合かどうかは、それが罪なのか、そうでないかを判断しなければならないし、次に、ちょっと適切な言葉ではないかもしれませんが、
『意識領域』
『無意識領域』
のどちらなのか分けて考えなければならないと思います。

例えば、子供が肘をついてご飯を食べている時、これは怒らなければなりません。
日本において食事中に肘をつくのは、はしたない行為とされていますから罪。
そして、これは意識すれば今すぐ直せることだから注意すべき。


試合で怒ってもいい場合とは『意識領域』、つまり意識を変えればある程度、結果が変わったであろうと考えられる時のみです。

・右にステップしろ、と指示をしたのに左にばかり移動した
・ローが効いてる、と言ってるのにミドルやハイばかり出した
・技有りを取って(もらって)残り時間を無気力に過ごした

こんなもんじゃないか。ほかにそんなに思いつきません。
だからと言って、過剰にプレッシャーのかかる試合中は冷静な判断力が下がるので、どれも殴るほどの罪ではない。
わたくしが試合後に選手を怒ったことって、20年間で2~3回くらいなもんです。

要するに試合の中で意識して変えられる部分なんてあんまりない。
だから実際怒る場面なんてほとんどない。

むしろ意識で変えられる領域とは、ほとんど平素の練習中にあるものです。



試合というのは、相手がいて結果があります。その相手は必ずしも均一ではなく、対戦してみなければわかりません。
例えば、陸上とか、ウエイトリフティングとか、いちおう対戦相手がいるんだけれども、本質的に自分の過去の最高のパフォーマンスを、本番で忠実に再現することが求められる競技がある一方で、格闘技はどんな相手と対戦するかが勝敗に大きく寄与する競技です。
必ずしも練習した通りにはいかない。
空手で負ける、ということは、その時は相手が強かった、いうことです。


『自分ではどうにもならないことを
どうにかしようとすればするほど
自分でどうにかなることまで
どうにもならなくなる』


どんなに練習しても
対戦相手がどれくらい強いかによる。
対戦相手との相性もある。

トーナメントの運もある。
ジャッジの主観もある。

そんなことを嘆いてもどうにもならない。

自分でなんとかなることは、自分の仕上がり具合だけだ。
だから、限られた条件の中で、自分でできることは何か考えよう。


今回の試合では、相手の方が上回っていた。
また同じ相手と再びまみえることがあるならと考えて、次は負けないようにと対策をしよう。

それが修業です。


わたくしが嫌悪感を覚える代表的なものは、相手に押されて後ろに下がったことを責めること。
だって、あなたの子供は自発的に下がったわけじゃない。そこには相手がいて、その相手は、あなたの子供を後ろに下げてやろうと思って前に出てきたのですよ。
両者とも同じことを思ってぶつかり合い、結果、片方が自分の意に反して下がらざるを得なかった。

で、下がったことをなぜ批判するの?

セコンドが
『下がるな!!』
と言ったら下がらなくなるの?

選手が
『あぁそうだ。下がっちゃダメだ』
と思い直せば、下がらなくなるの?


そこに相手がいることを忘れてませんか?
現時点で、相手の方が接近戦に強いんですよ。


それはステップや手数も同じ。
道場では華麗にステップして相手のサイドポジションを取る選手が、相手にやられるがまま真っ直ぐ後ろに下がった。
サンドバッグで手数を出せる選手が、なぜか試合で手数を出さなかった。

おそらく、相手の攻撃が思いのほか痛いとか、やたらカウンターが上手いとか、圧がすごくて前屈できなかったとか、きっとなにか選手にしかわからない特殊な事情があるんです。
だからやってる選手は誰だって勝ちたいけれど、ディフェンスに回らなければならなかった。


それなのに、試合が終わった瞬間、親に
『なんで手数ださんかったとかて!!』
とか言って殴られる。

特に低学年の子供なんて語彙が乏しいから理由なんて説明できない。
もちろん親も、手数を出せなかった本当の理由なんて別に興味がないから、もし子供が
『相手の身長が高く、肩口に来る上からのパンチを避けにくくて思うように手数を出せなかった』
などと、子供が本当に事情を説明しようものなら、
『理由がわかってるならやらんかい!!』
と言って、たぶんもっと怒る。

この怒り方は、ひとつも指導じゃない。
これは、ただの親の感情失禁(ションベンを漏らすのと一緒で、怒りの感情をこらえきれずにお漏らしする)。
子供が負けて悔しくて、自分の感情を抑えきれずに八つ当たりしているだけです。



さんざん親が
『次は絶対に下がるなよ!!』
と怒鳴って殴って、直後にまた同じ相手と再試合するとします。

でも、絶対に後ろに下がるなよ、と言われても、意識ではどうにもならない領域のことだから何も変化は起きない。
それどころか、子供は怒られた分だけ自信を無くして、さっきよりももっと悪い試合をするはず。

いくら周りがやんや怒っても結果は変わるわけがないのですから、それは日ハムの日本一を受けて広島の街で大暴れしている酔っ払いと同じレベルです。



だから周りで見ている我々も気分が悪い。

いいかげん、カラテ界から絶滅せんかなこの人種。