時間について考える時間で、時間が経って、時間に踊らされる。
テーマ:ブログ結論が出ている訳でもないし、自分が何を言いたいかも、何を求めてこんなことを考えているのかもわからず、でも自分の中で大きく考え方生き方が変わるんじゃないかと思って漠然と考えている。
「時間」について。
先日4億円も3年間に稼いでいることがわかった茂木さんが書いた本「あなたでもわかる相対性理論」を読んだ。(余談だか茂木さんは最近の仕事の多さに疲れ、文化人というか自分のような仕事をするひとはこんなに儲かるんだよと世間に教えるためにわざと脱税で捕まり一旦仕事を休もうと思ったからであると信じている)
相対性理論については全くわからなかった。僕らが日々振り回される時間というものは相対的であって、それ自体の存在自体は益々意味がわからなくなった。
時間と言うものは単純にそれだけで存在することはない。
退屈な時間。楽しい時間。嬉しい時間。
~な時間。というそれだけでは存在しない存在の「時間」。
同じ空間で僕と誰かが過ごしても、それはお互いにとって同じ時間ではなくて、100時間に感じるくらいであったり、1時間にも感じなかったり。でも第三者からその2人を見れば同じ時間で。
昨日小宮一慶さんの時間力についての講演に行って来た。
時間をコントロールすることが人生の質上げに繋がるということで、そのために24時間の使い方、1週間という区切った単位での使い方、そして考え方。習慣化を取り得れることによって前向きな時間を増やし質の高い時間を増やそうということだ。
とてももっともで、自分が不毛に過ごす時間の多さに情けなさを感じてしまった。
皆に共通で皆に平等で誰のものでもない時間。社会の中で生きる我々にとって意識する時間を、仮に社会時間と名づけよう。
タイムイズマネー。誰にでも平等に与えられているものが時間だ。
時間を大切にしなければいけないという漠然とした教えが刷り込まれ過ぎていて、時間という奴に一喜一憂させられ過ぎているのが当たり前になっていて。
社会の中で生きるうえで時間という誰にでも共通の単位をうまく使えば、社会の中でより有意義に生きられるということは勿論わかっている。
しかし僕という個体が存在してから当たり前に、ずっとくっついているこの「時間」という存在は一体どれだけ相対的に考えなければいけないのだろう。
同じ時間でも100歳まで生きる人と50歳まで生きる人では同じ1時間では絶対ない。
社会の中で利益を出して可能性を増やしていこうと思って存在している会社。そしてその中で生きる僕は社会時間という共通の中でどれだけ良いパフォーマンスをするかはとても重要なことだ。
しかし僕という唯一無二の個体において、生まれてから死ぬまでという、僕時間だけを考え、そして社会時間と言う枠を外して考えると、
時間とは全く持って価値を見出せないものになる。
もし仮に明日地球が滅亡するなら・・・とかの話って実はこの初めて社会時間ではなくて僕時間について考える時間であるのかもしれない。
社会時間と僕時間をどれだけシンクロさせることが出来るかが、人生の充実度なのか。
そんな充実度とか満足度とかの話ではない。
このあまりにも僕の日々を、僕の感情を左右させる。時間って野郎は一体何なんだ。
僕時間に単位なんて持ってはいけないのではないか。
僕の生きる尺度に時間の単位を考えないほうがいいのではないか。
僕にとって大事なことは他人との相対的な時間の濃密度なんて考えないことが本当の生き方なのでは。
ただ社会の中で社会時間の単位で99パーセント生きている僕が、こんなことを考えることがかなりの不毛地帯であって、そして時間に踊らされているのであって、益々時間野郎にやられる訳で。
ここまで読んで、こんな僕のブログを読んでくれた人にも不毛地帯を与えてしまってごめんなさい。






