しばらく続けてアイルランドの聖地ツアーのことを書いていたのですが
中断してしまいました。


今日のブログはめちゃくちゃ長いので

先に、お知らせを載せておきます。


http://www.lenormand-japan.com/schedule/



で、ツアーのことが続けて書けないので・・・

と、言うのも
マヤ暦の切り替えである7月25日の俗にいう「みどりの日」と呼ばれる日の前後から
なんとなく

書きたいことがあまりにありすぎる状況になり

しかし、それを今書いたところで
一体何になる???

というような疑問も、脳裏にちらついてきて
いろいろ調べたり、勉強しなおしているうちに

これは、

一筋縄ではいかない、非常に複雑な知性が背後にあり

ま、知性とは言いますが

知性だから「良いもの」とは限らず

・・・

なんというか、私にとっては歓迎すべきものではないのですが
それを「知性」としている人たちもいるだろうし
その人たちの考え方にも自由があることを認めるとすれば

という意味で
知性なのですが、知性が働いていて、時間をかけて今の様々な出来事の状況が作られてきたのではないか?

というコンクリュージョンに至ってきた感があります。

しかし

それを、簡単に説明するには、
よく書けたシナリオのすべてを理解するために、
ここ25年ほどの世界の歴史と動向を、けっこうつぶさに知らないといけないなあ・・・

と、思い、途方に暮れてしまう感覚。

しかし

今、起きている多くの分けのわからない出来事や、悲惨なできごとは

ある意味、書かれたシナリオ通りに、物事を動かし始めたら
そこにある宗教や、心理や、国民性が、
勝手に、こんな風に料理してくれることになるので

まあ、最初のところだけは
丁寧にシナリオ通り動かして
あとは、即興的に対応しながら、ポイントさえ押さえていけば、簡単に結果をだせるよね

・・・みたいな、意志というか、知性というか
はたまた話し合いというか
あるいは、契約とうか

そのようなものがあったのではないかと
思ってしまう

惰性で動いている車をターニングポイントに来た時に、マイナー修正するだけでいいといったような舵の取り方で、今は動いているんじゃないかと

思うのです。

そして

もくろんだ方向に進む出来事は
その状況のキャストである、私たちすべての人間が
ものの見方や、考え方などをドラスティックに変化させるような変容によって
変えられる可能性は、まだ残っているのではないか・・・

あるいは
その可能性を動かすために、

今、あらゆるひどい出来事を
無意識の闇が、作り出しているのではないか

そう
思うと

起きているすべてのことが
一人ひとりの意識とのかかわりということになり

一人ひとりに責任があるということになる。

最近のスピ系は
見たくないものは、見なくてもいいよ系の感覚がおおいにあり
過去、ニューエイジという言葉で呼ばれたころの
パラダイムシフト感覚がかなり失せていると思う。

ニューエイジがよいわけでもなく
偏っていた部分はたくさんあると思うけれど
それでも

「社会」で何が起きているのかに目をつぶれという態度はなかったと思う。

スピ系や癒しを専門にしている人たちが、
世界、社会で何か起きているかをしらずに、
また、そのような様々な出来事に対する、個人の、独自の意見や哲学をもたずに
未来ビジョンなど、もてるわけがないんじゃないかな




思うわけです。


で、

相模原で起きた、身体章がい者の施設での殺人事件などの記事をみていて
思うのですが

書く人が、出来事をストーリー化してしまっているように思うわけです。

これって、出来事の順番はあっても、ストーリーというものはないのではないかと。

勝手につなげてストーリーにする性質を持っている人間がいて
そのストーリーを読んで、その筋書き通りに理解することで
想像の域を出られなくなる

そして

前文に書いた通り
以前、周到に決められたシナリオが、思ったとおりに動いていくことに加担してしまうという
そういうことが起きてないかということ

紋切型な、物事の見方をしていけば
理解しやすく、安心する向きもいるかもしれないけれど

世界の変化と同速度の意識変化をしていかないと
対処できずに、時間のあとをついていくことになる

そこを変化させるために
文屋がいるんじゃないのかと、思うわけです。

でも


なんか

それが機能していないので

かなり、???なことが書かれていたりするわけです。




ひとつ

疑問に思うのは


ものを書く人や、医師や、法を取り扱う人たちが

脳障害と、精神障害を混濁させて考えているところです


脳性まひは、脳に障害があるので、脳の機能障害だと思いますが
精神に障害があるわけではないと思います。

精神というものを、どうとらえるかですが
精神は、読んで字のごとく、精神で、精妙なる神の域の意識のことで
魂と呼ばれる域に限りなく近いものだと思います。

だから

脳に障害があっても、精神に障害のない、清らかな感じの人はたくさんいると思います。

認知症の原因のひとつに、複数以上の軽い脳梗塞があると思いますが
それによって、物忘れがひどくなったとしても、その人の精神に障害があるわけでなく
脳に障害があるわけで
明確にいえば、脳神経の障害なのにもかかわらず
この状態を精神障害と呼んで、精神病院にいれる


おかしいです


精神というものは、脳の中にあるのでしょうか?

精神というものは、スピ系的にいえば、心のことで、ハートにその座を置くと考えられるものです。

言ってみれば、頭で考える前に、反応を起こしている心臓そのものに
その人の精神があるといっても過言ではないのです。

山登りが得意だった人が交通事故で脳死し、その心臓を移植された人が
なぜか、その後、山に登るようになったという話がありますが
山に登るという精神は、脳ではなく、考えよりも上位にあると思われる、心臓=ハートにあると
この例からも言われていたり

物事に対する反応は、最初のドキッという反応が脳に伝わるともいわれていて
すべて、脳が最初ではないとも考えられているのです

だから
その逆もまた真なりで、脳に精神があると考えるのはどうか?
と、思うのです。

心臓といえば臓器になりますが

そんな物質的な話にせずとも
ハートって・・・目に見えない。
精神って、目に見えない。

でも、そこに存在するものではないでしょうか?

精神障害と脳障害は異なるということを、明らかにするためにはどうしたらようのでしょう?

まず

脳からではなく

精神とは何かをみつめるところから、始めるしかないと思います。

自分って、どういう精神でできているのか?

ですね。

どういう精神が、自分を自分たらしめているのかですね。

そして

指導者たる精神を持っている人が
尊敬されながら、リーダーシップを発揮していくうようになることが
望ましいと思うわけです。

票の多さでは、そんなもの測れないしょう。



そんなことを考えていたら
アートヴィレッジの仲間の一人が

この夏、18年ぶりに、ラコタ族のサンダンスに参加するというので
こんなメッセージがやってきました。


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こんにちは〜


7/29-8/10まで渡米します。
アメリカインディアン・ラコタ・スー族のサンダンスに参加します。
7/31-8/3 浄化期間
8/4 - 8/7 サンダンス アメリカ山岳時間(ー15時間)
サンダンスの期間に無事に踊れるように
レイキをお願いします。

サウスダコタ州のサンダンスが行われる聖地に行くのは15年ぶりです。

ここで、サンダンスをご存知ない方へご紹介しますね。

サンダンスは創造主からラコタ族に降ろされた7つの儀式の1つで
この時期、収穫を喜び感謝するために行われます。

アメリカ大陸ではこの時期、大小合わせて500箇所くらいでサンダンスは行われています。

私が参加するのは、ラコタ族のチーフが開催する一番大きなサンダンスです。

朝4時に起床して、スウェットロッジで心身を浄化し
サンダンス衣装に着替えて、日の出前の6時頃からスタートします。そして日没(現在は21時頃)まで踊り、スウエットロッジに入ります。

この4日間は飲まず食わずで炎天下の中、踊り続けます。

休憩は途中に何回かあります。

熱中症にならないかと心配されますが、大丈夫です。

私が初めて参加した94年から2001年まで、
26カ国800〜1000人
サンダンサーとサポーターが参加していますが、
まず女性は倒れません。

気温が40℃になる時もありますが、死んだ人はいません。

男性は倒れる人もいますが、ラコタ族をはじめナバホ族や
チェロキー族、メキシコのマヤ・アステカ族、カナダの多数の部族のチーフ達やメディスンマン、メディスンウーマンが大勢参加しているので、呪術や魔法は日常茶飯事です。

あっという間に復活します。

またドクターズキャンプ(西洋・東洋医学)もあるので、点滴を受けたり針治療なども行われています。

お腹はすきませんが、喉の乾きはかなり感じます。

そして、メディスンマンやチーフ達が個人個人をチェックしているので必要な場合は、連れて行かれて、メディスンティーを飲ませてくれます。

サンダンサーは4日間はお水に触ってはいけない決まりがあります。水も電気もない場所でキャンプするので、触りたくても触れませんが(笑)


ただね、


ダンス中に喉の乾きをおぼえると、
それは祈りに入っていないということなのです。

ダンスそのものが祈りの儀式ですが、
ダンス中は集中して祈っています。

トランス状態に入るダンサーも多いです。

子供から老人までラコタの人々は踊ります。




そして、参加して一番驚いたことは・・・




だいたい、毎年この時期に行われるのですが、




8月6日の広島の原爆記念日に、



サンダンス中に特別なセレモニーが行われます。

日本人のダンサーとサポーターがアーバーというダンス会場に入って広島や長崎のために祈るセレモニーです。

世界中の参加者たちがセレモニー中に
祈り続けます。

セレモニーが終わると、皆さんが私たち日本人をハグしてくれます。この広島や日本のために祈る儀式は、日本人が参加していようといなくても
かならず行われている儀式です。

今は福島のためにも祈られているかもしれませんね。

日本人が知らなくても、日本のために祈りのセレモニーが行われいるのは、素晴らしいことだと感激しました。

サンダンスは1年に1回踊り4回でワンクールです。

私の場合はラコタ族のチーフから聖なるパイプを授かったので
サンダンスは必須条件で参加しています。

最初の1クールのサンダンスを終えないと、サンダンサーとは呼ばれません。

サンダンスをするためには、ヴィジョンクエストを受けないと踊れません。

これは、メディスンマンに指定された場所(森や丘や砂漠など)で、4日間寝袋だけで過ごします。ヴィジョンを求めて祈り続けます。

4日間、飲まず食わずが伝統的な方法ですが、私が受けた時にはお水は支給されました。

私はパイプキーパーなので、大地と人々に奉仕する役目があります。全国各地でパイプセレモニーを行っていますので、是非ご参加ください。

また、スウェットロッジも毎月、千葉(東京コミュニティ)と鳥取の智頭(岡山コミュニティ)で行っています。岡山コミュニティのスウェットロッジは
大阪や京都からも高速バスで参加できます。

長くなりましたが、是非みなさんのレイキの力を貸してください。

私と他のサンダンスに参加するすべての人が無事に過ごせるように。

私もみなさんのために祈ります。

All my relations!
Mitakuye oyasin!



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彼女は、拙著「ユア・ターン」にも掲載されている方で
交通事故で一度、あの世に行って帰ってきた方です。

事故で片目を失ったので

いわば、身体障がい者になるのかもしれませんが

身体に障がいがなくても、こんな過酷な祈りのために、身を捧げようと思わない人もいるわけで、
そういう角度からみると

障害者=ディスエイブル

というのはなりたたず、

ディスエイブルではなく

すごくエイブルなんです。


エイブルというのは「できる」という意味です。

私は、コズミックダンスというダンスの公演を
身体に障がいのあるかたたちと、プロのダンサーのコラボチームを作って踊っていたことがありますが、

どの人もみんな

障がいのあるないにかかわらず、「エイブル」でした。

そして、踊っているときには、精神でつながっているので
シンクロニシティの中で即興的に作品を本番中につくりあげることができるという
面白いことができていました。




シンクロニシティの中で即興的に作品を本番中につくりあげることができる




エイブルです。

そういったことができると信じていなければ、できないのですから
完璧にエイブルなんですね。


そういった意味でも

障がいのある人を弱者と呼ぶのも
どうかと思います。

障がいがあっても生きていられるということは、すごく強い生命力を持っている証。

存在するだけで、人を幸せにすることができるような力を持っている人もいますし、
その逆に、とてもネガティブな人もいます。


つまり

障がいのある、なしに、かかわらず

そういった意味で、人間として同じだと思います。

五体満足でも、どん底のようにネガティブな人もたくさんいますよね。
前向きに考えられず、二言目には、人が落ち込むようなことを平気で言う人もいる。

そういう人は、エイブルじゃない。

いや、
そういう時は、エイブルじゃないといったほうがいいのかもしれませんが。




精神も、心も目にみえないし
祈りだってそう

でも


そこに、大切なものがあるということを
それこそ大切にしないと

・・・




星の王子さまが

ね、ヒツジの絵をかいて

と、頼んだ時

めんどうになったパイロットの私は

この箱の中に入ってるよといって、箱を差し出したら

王子さまは、

僕、こんなのほしかったんだ

と、喜んだんじゃなかったかな~



目にみえないものって


大切なんだよねと

星においてきたバラの花のことを愛し続けていた王子さま


精神っていったい何か

まず、見つめてみるところから、もう一度はじめたほうがいい






思います。


かなりめちゃくちゃな文章なので

私自身の備忘録として書いたようなブログでした


また

5次元ライフとのかかわりとしても
ちゃんと書いてみます。