4.ガリレオの憂鬱
ロメオは、扉の前に呆然と立ちすくんでいた。両手に抱えた大量の資料が今にも落ちそうになっているが、気にかける様子は全くない。扉の向こうから聞こえる話し声に、食い入るように耳を傾けている。
やがて、扉の向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのあるフレーズだった。
<イエス>
ロメオは再び戦慄した。
間違いない。扉の向こうでは、今まさに悪魔の能力が使われている。
ロメオがそう確信したときだった。両手の資料が腕をすり抜け、勢い良く床にばらまかれた……
*
異端審問対策ミーティングから13日後、ロメオは再びガリレオの教授室へ向かっていた。ロメオは、ガリレオの命を受けて太陽の観測を行っており、今日はその定期報告を行うことになっていたのだ。
しかし、道中、ロメオの足取りは重かった。それは、両手に抱えた大量の研究資料のせいではなかった。
——悪魔と契約したのは、自分のボス、ガリレオ・ガリレイ教授かもしれない——
あのミーティングで、ロメオは悪魔の能力が使われるのを目の前で見た。ガリレオの目の奥が怪しく光り、側近のカステリに<イエス>と言わせるのを目撃したのだ。だが、それが本当に悪魔の能力なのか、ロメオは確信が持てなかった。カステリがただボスであるガリレオの圧力に負けただけなのかもしれなかったからだ。ロメオはイングランドから来たというあの怪しい男が再び現れるのを待っていた。彼に話して、真偽を確かめたかった。しかし、男は一向にロメオの前に姿を現さず、ただ闇雲に時が過ぎていった。
ガリレオの秘書に指示されて、ロメオは一人教授室へ入った。長いテーブルが置かれている教授室には、今日は誰もいない。奥に飾られたガリレオの肖像画が、不気味にほくそ笑んでいるだけだ。ガリレオの執務室は、肖像画の下の少し奥まったところにあり、わずかに灯りが漏れている。今日はカステリが先に執務室に入ってガリレオと打ち合わせをしているらしい。ロメオは、灯りの方へと足を進めた。
執務室が近づくにつれ、中の声が漏れ聞こえてくる。内容までは分からないが、ガリレオとカステリの会話らしきものが聞こえる。どうやら扉が少し開いているようだ。
と、突然、はっきりとした声が響き渡った。
「この役立たずめ! あれから何日経っていると思うんだ!?」
ガリレオの声だ。どうやらカステリを責め立てているらしい。ロメオには経験はないが、ガリレオは機嫌が悪いときによく声を荒げる、という話を聞くことがある。特に今は異端審問の件でかなり苛立っているのだろう。その矛先が不幸にもカステリに向けられているようだ。
「申し訳ございません。ローマまでの道のりは遠く、使者が戻るには、今しばらくのお時間が必要かと……」
「ふん! そんなことわかっとるわ! それを何とかするのが君の仕事だろう!」
どうやらガリレオは、ローマのバルベリーニ卿とのアポイントが未だ取れていないことに腹を立てているらしい。
「本当に申し訳ございません……」
「何が申し訳ございませんだ! 僕は君に謝れと言ってるんじゃない。なんとかしろと言ってるんだ!」
「……」
ガリレオの怒りは収まらず、カステリはかなり萎縮してしまっているようだ。扉越しにもピリピリした雰囲気が伝わってくる。ロメオはカステリを気の毒に思った。(こんなに怒鳴られてしまっては、何も言い返すことはできないだろう……)やはり、先日の異端審問対策ミーティングでの<イエス>は、悪魔の能力などではなく、ただのボスに対する<イエス>だったのかもしれない。いやきっとそうだ。ガリレオは悪魔と契約などしてはいない。カステリはただボスを恐れてイエスマンとなってしまっているだけなのだ。ロメオはそう思うことにした。そう思うことで、心を落ち着かせたかった。
「どうせ君は、自分の研究ばかり進めていたんだろう?」
ガリレオの叱責は執拗に続く。
「なんだったかな、君が今取り組んでいる研究は……」
カステリはガリレオの右腕と言われているだけあり、非常に優れた研究者でもあった。ガリレオからは独立して多くの論文を発表しており、現在は海の満ち引きについての研究を行っていたはずだ。
「海の満干と大地の回転に関する報告、でございます」
「それはどれくらい進捗しているんだ?」
ロメオはなぜか胸がざわつくのを感じていた。同じような会話をどこかで聞いたことがあるような気がしていた。
「ほぼ完成しておりまして、近々教授のご意見を賜りたいと考えておりますが……」
「そうか……だったら……」
胸のざわつきが増してきた。頭の奥の方に封印されていた記憶が蘇りつつあった。ロメオは、衝動に駆られたように扉に近づき、隙間から部屋の中を覗きこんだ。
カステリの背中が見えた。肩を落とし、うなだれたように立っている。そして、デスクを挟んだ向こう側にガリレオが座っていた。革の椅子に深く座り、カステリを睨みつけている。
「じゃあ、その研究、僕にくれない?」
突然のガリレオの言葉に、カステリはうなだれていた首を起こし、唖然とした様子でガリレオを見直した。
「……どういう意味でしょうか、それは……」
「ん? 君は言葉も理解できないのか? 君のその海のなんとかって言う研究を、僕の名前で発表するって言ってるんだよ」
ロメオは記憶の底にある何かをつかもうとしていた。カステリの気持ちが手に取るようにわかった。ロメオは確かに、同じ場面を経験していた。
「まさか、本気でおっしゃっているのですか? あの研究は、この3年間、私が……」
「あーもうわからん奴だ。カステリ君、その研究は、誰の研究だい?」
ガリレオの瞳の奥が怪しく光った。
「僕だよね?」
カステリはガクリと膝を落とし、虚ろな声で応えた。
「イエス」
ロメオの体を戦慄が走った。
「ククククク……そうだろう? カステリ君。いかんよ、勝手に僕の研究を横取りしちゃあ」
「もうしわけございません」
間違いない。ガリレオは悪魔と契約し、その能力を悪用している!
そして、こうしてガリレオが他人の研究を奪い取るのは、初めてのことではない。そう、ロメオは思い出した。自分もまた研究を奪われた者の一人だということを!
<バサリ>
ロメオが両手に抱えていた大量の資料が、勢い良く床にばらまかれた。
「だれだ!?」
物音に気づいたガリレオが声を上げる。
ロメオは散らばった資料を拾おうともせず、唖然と立ち尽くしていたが、やがて決意したように口元を固く結び、扉を開けた。自らのボスを直視するその瞳には、強い意志が宿っていた。
「むう? 君は確か……」
ガリレオは目を細めた。
「お忘れでしょうか、教授。観測主任のロメオ・モンタギューです」
「ああ……ロメオ君か。今日は何の用かな? 新しい研究の報告かい?」
ガリレオは髭をしごきながら、警戒するような目でロメオを見つめている。
ロメオはガリレオを直視したまま足を進め、ゆっくりと近づいていった。
「教授、今のは一体、どういうことでしょうか……」
ロメオの声は怒りで震えていた。
「なんだい? 何かおかしいことでもあったかね?」
ガリレオはとぼけたように首をかしげた。
「何もないよねえ? カステリ君」
「イエス」
カステリは膝をついたまま、生気の抜けた目をしている。完全にイエスの能力により骨抜きにされてしまっているようだ。
「ほうら、カステリ君もこう言っているだろう」
ガリレオはロメオを挑発するような表情で笑っている。ロメオは拳を握りしめ、歩み寄る足を早めた。
「しかし、盗み聞きとはなんとも無礼な男だ……君は罰を受けなければならないようだね」
ちょうどカステリの横まで来たところだった。ガリレオはニヤリとほくそ笑み、瞳の奥を怪しく光らせた。
「土下座して謝りなさい」
膝がガクリと折れ、ロメオは膝立ちになった。
「イエス」
反射的にロメオはそう応えていた。それは完全に自らの意志に反した言葉だった。さらに追い打ちをかけるように、勝手に膝が折れ、両手のひらが地面についた。
「そうだ、それでいい。さあ、謝罪の言葉はどうした?」
いつの間にか、ガリレオがロメオの前に立っていた。ロメオの意志は懸命に抵抗をしていた。が、どうしても体が言うことをきかない。それどころかロメオは額を地面にすりつけ、思いもしない言葉を口にしていた。
「たいへん……もうしわけございません……どうか……おゆるしくださいませ……」
ガリレオはニヤニヤしながらロメオを見下ろしていた。
「おや? 君は面白いところに痣があるねえ」
首筋の痣を見つけ、ロメオの襟元をめくり上げる。
「ククク……この下賤の者め……こんなことで罪が許されると思っているのかい?」
ガリレオは汚れたものでも見るような目つきでロメオを見下した。
ロメオは今まで感じたことがないほどの強い憤りを感じていた。全身の血が逆流するような、強烈な恥辱感だった。しかし、体は言うことをきかず、地面に突っ伏していることしかできなかった。
「そうだ!」
ガリレオはふと、いたずらを思いついた子供のような顔をして笑い、右足をすっと前に出した。
「ほら、これを舐めてごらんよ」
地面に伏せたロメオの顔の前に、ガリレオのうす汚い靴が置かれた。
「ほうら、僕の靴を舐めてきれいにするんだ。そうしたら許してあげるよ」
ガリレオは靴をジリジリとロメオの顔に近づけてくる。
ロメオは必死の思いで抵抗した。歯を食いしばり、体は小刻みに震えていた。この屈辱を受け入れてはいけない。悪魔の能力に操られてはいけない……ロメオは最後の意思を振り絞り、顔を上げ、必死の形相でガリレオを睨みつけた。
「プププ、なんて顔をしてるんだ。お前ら、本当にバカばっかりだな……」
ガリレオは吹き出すようにして笑った。そして、瞳の奥を怪しく光らせ、ゆったりと告げた。
「僕の靴を舐めなさい」
もはやロメオには悪魔の能力に抗う力は残されていなかった。ロメオの目はドロリと濁り、口からは抑揚のない声が漏れた。
「……イエス……」
ロメオはゆっくりと顔を下に向けた。そしてその顔をガリレオのうす汚い靴に近づけ、口を開き、舌をだし……
<ドンドンドンドンドン!>
突然、扉を叩く音が響いた。それに続いて、男の声がガリレオを呼んだ。
「教授、いらっしゃいますでしょうか?」
しかし、ガリレオは嬉々とした表情のまま、ロメオから目を離そうとしない。
「ちょっと、今いいところなんだ、後じゃあダメなの?」
「吉報でございます。ローマより使者が戻り、バルベリーニ卿との会談がセッティングされたとのことでございます」
「本当に!」
ガリレオは顔をあげ、扉を見た。その途端、ロメオの体は呪縛が解かれたように軽くなった。
「よし、これで僕の疑いは晴れたも同然だ!」
ガリレオは拳を握りしめ、ロメオには目もくれず、意気揚々と扉へ向かった。
「早く準備をしなければ!」
勢い良く扉を開け、立っていた太った男に指示を出した。
「今夜僕は、ローマ行きの準備のために地下室にこもる」
ガリレオは小躍りするように部屋を出ていった。太った男もガリレオを追いかけた。ガリレオは歩きながら男に指示を出し続けた。
「地下室には、絶対に誰も近づけちゃあいかんよ。絶対にだ。あと、ろうそくをたくさん用意してくれ。今夜は長くなるからね……」
ガリレオの声は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。執務室に取り残されたロメオは、ただ呆然とうずくまることしかできなかった。
5.地下室
地下室の低い天井から水滴がしたたり落ち、ごつごつとした敷石をじっとりと濡らしていた。数本のろうそくの灯が狭い室内を薄ぼんやりと照らし出している。部屋の中央、大きな黒い塊が天井からつり下げられていた。ろうそくの灯りが揺れ、黒い塊の輪郭を明らかにする。それは、豊かなあご髭を蓄えた老人だった。黒革のボンデージを身につけ、両手首を枷(かせ)で束ねられた老人が、天井から鎖でつり下げられている。老人は、目隠しをされ、浅く小刻みに呼吸を続けていた。
<ビターン!>
甲高い音が地下室に鳴り響いた。老人が「ひあ!」と声をあげる。
傍らには、老人と同じ黒革のボンデージをつけ、蝶を模した仮面をつけた女が、長い鞭を手にし、老人をにらみつけていた。女は、ボンデージの下にはレース状の黒いタイツしかつけていないらしい。その美しい体の曲線を露わにしている。
再び、女が鞭を振り上げ、勢いよく老人を打った。
「ひあ!」
髭の奥から、喜悦の声が漏れた。
「ひい! もっと! もっと僕をいじめて!」
さらに横、縦と鞭が飛ぶ。
「あひい! ひひい!」
老人のたるんだ皮膚には無数のミミズ腫れができあがり、赤く血がにじみ出している。それに追い打ちをかけるように強く鞭が飛んだ。
「あはあ!」
歓喜の声を老人があげる。と、どこからともなく湿った風が吹き込み、ろうそくの灯を妖しく揺らめかせた。
<汝、新たなる力を欲するのか?>
地の底から聞こえるようなどす黒い声が地下室に響いた。
その声に応えるように、老人が細い声でつぶやく。
「……やっと来てくれた……僕がこうしてお楽しみでないと、君は現れないんだね……」
<我々と交信できるのは極限状態の魂のみ。ただそれだけだ>
「ククク……まあいいや……僕は今、異端審問だなんて、バカげたことに巻き込まれている……」
地下室には、老人と女以外には誰もいない。しかし老人は闇の声に語りかけ続けた。
「僕の潔白を……わからせないといけないんだ……あいつらに……」
<ならば、新たなる魂を捧げよ>
「新たなる、魂……」
<そう、美しく純粋なる“太陽の一族”の魂だ>
闇の声には、どこか楽しそうな響きが感じられる。
「太陽の一族? どこに……」
<“スティグマ”を探せ……黒く大きな聖恨を……>
「スティグマ……承知した……」
老人が応えると、再び妖しい風が吹き、ろうそくの火を一つ消した。柔らかい煙が流れ、張り詰めていた空気が緩んだ。
「ククク……」
天井から吊り下げられたまま、老人は笑っていた。
「太陽の一族……スティグマ……あいつだ……」
*
ドサリと床に崩れ落ち、老人は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたが、突然、女が手首にはめられた鎖を外したようだ。
老人は疲れていた。意識が朦朧としている。しかし、休息は許されなかった。女が老人の豊かな髭を鷲掴みにし、顔をグイとあげさせる。
「ああ……マンマ……僕を許して……」
意味不明の言葉をつぶやく老人の頬を女は容赦なく平手打ちした。
「ひゃあ!」
返す手でもう一度頬を打ち付ける。
「いひっ!」
女が髭を離すと老人は再び床にうずくまった。その目線の先に、女が黒いハイヒールの足を伸ばした。
「ウプププププ」
老人の目の色が変わった。枷で束ねられた両手を女の足に伸ばす。芋虫のように地面を這いずり、黒光りするハイヒールに近づいていく。その目は血走り、口からはよだれがダラダラと垂れ流されていた。
「ああ……マンマ……マンマ……」
女の足にすがりつくと、老人はベロリと舌をなめずり、ゆっくりとハイヒールに顔を近づけた。
<べチョリ>
老人の舌がハイヒールを拭う。
<べチョリべチョリ>
老人は、恍惚の表情でハイヒールを舐め回し続ける。
<べチョべチョべチョべチョチョべチョべチョべチョべチョベ>
「んふっ……」
やがて、老人は昇天したかのように息を漏らし、意識を失った。
失神した老人を、女が冷たい目で見下ろしていた。
どこかで、野良犬の遠吠えが聞こえた。
つづく