年齢という呪縛に、一番囚われているのは私なのかもしれない、と思う最近の話。

ようやく、働き先が決まった。一つは、遊園地のお姉さん。もう一つは、居酒屋さん。8回か9回の面接を経て、ようやく私を雇用してくれた場所。最初は、コロナだから人があまりいなくてそもそも受け入れる人数も限られているから落ちているのかな、と感じたけど、いま振り返ってみると「25歳」という年齢の権限に引っかかっていたのかも知れないと感じるようになった。一緒に働いている人たちは、みんな自分よりも若い未来のある子達ばかり。一方で私は、大学を卒業して、フリーターになるでもなく一度就職をして2年ほど在籍をしていて社会人として営業として働いていた25歳という中堅の人間。どちらをとるだろうか、と考えたとき何も知らないそして未来がある若い子たちをとるのが「当たり前」なのだろう、という感覚はごく自然に生まれる。私は、常識的に見て世間的に見て「例外」と言われる部分にいる扱いにくい人間に分類されるのだろう。そんなこと、働くまで感じたことがなかった。だって、まだ20代で圧倒的に戦力になる戦力でフリーターでより多く働ける側にいるのだから、落ちるはずがないって。縁がない、と割り切って次へ次へと受け続けてきた面接だけど、年齢という呪縛は世の中にも自分の中にもあったように感じた。一緒に働いていると、自分がどうしても「よくない」人間のように思えてしまう。「楽しさ」を選んで始めたいまの生活も、「間違い」なのかと思えてしまうほどに。「楽しさ」を求めて始めて、「楽しく」働けるのならばそれでいいじゃんと思っていたけど、どうもそうもいかないほどに、年齢という後ろめたさが私を追い込んでくることもある。むしろ、そっちの方が多いのだろうか。日常的に、感じてしまう。それが、年齢という名の呪縛。一番年上、まだ私よりも上がいる、という安心材料を用意したら、それはもう比較をしているということ。私の生き方を、私自身が他人と比較しているということになる。

話をしている時も、そう思える時がある。私が年上という事実は、紛れも無い事実だけど別に敬語を使うのが当たり前と考えているような人間ではなかったのに、それが普通だと認識していたこともわかった。敬語を使われないと、「異常」だと感じてしまう私がいることに気づいた。年齢も関係なく、人として接していきたいと考えていたのに、その考えを否定している生き方をしていたのは私だった。それがとても、辛くしんどい事実ということ。私は、どうなっていきたいのだろう、と以前より考えるようになった。それは私にとってはいいことではある。年齢、という呪縛に縛られていた私に気づいて私はどうなりたいのか、改めて考える。私は、どうなりたいのか。私は、どうしていきたいのか。私は、「楽しさ」だけでいきて生きたいのか。果たして。