多くのものをもらう機会が増えた。それと同時に、多くのものを日々もらっているんだという事実を感じるのが上手になった気もする。日常は、いつだって贈与に溢れていたんだ、と気づくきっかけになった。それはとても、大きな前進だと思う。日々は、いつだって幸せに満ちている。どうせなら、ありがとうとたくさん伝えられる人生の方が楽しい。そう気づけた人生の方が、ずっと楽しい。



多くのものをいただいているうちに、「贈与」に関してのイメージが少しだけ具現化できるようになった。

 

「贈与」は対象と離れていた方が嫌悪感を感じにくいこと

「贈与」は対象が近くにいると嫌悪感を感じやすいこと

 

ほとんど同じことを書いているけれど、「贈与」との距離が離れている方がもらいやすいと感じた。今回の企画、「初めて公にくださいと宣言する」を通して、それはより明確なものとなった気がする。毎日何かしらプレゼントが届く。うわ〜今日はあの人から届いた!わ〜!これ、いっちばん欲しかったやつ!と、「贈与」が第三者を通して行われた場合(宅急便で毎日届くこと)、それをあっさりとすんなりと、自分自身へのプレゼントだと、受け取ることが出来た。それはとても、嬉しい発見だった。





一方で、直接対象が自分に「贈与」であるプレゼントを譲渡する際には、やはり一定の感覚で「申し訳なさ」が働く。これはもう、どうしようもないものなのかもしれないと思った。本来「贈与」は、もらったことによって「申し訳なさ」を感じ、改めてその「贈与」を循環していく、のが常であるらしい。(「困難な成熟」 百田樹-より)

 

であるならば、こうして直接「贈与」を受け取ることで、みんなが「申し訳なさ」を感じて世界が「贈与」で出来ているのならば、自分に生じるもらったことによる「申し訳なさ」は必要である、のだろう。自分自身での消化は今だにできていないけれど、やはり第三者からもらうことと直接もらうことには、相違がある。直接もらうことは、やはりみんな慣れないのかもしれない。とすると、

「申し訳なさ」が比較的少なく、「嬉しさ」が増大する第三者による「贈与」例えば、アマゾンほしい物リストなどは、純粋な気持ちで「贈与」出来るとても素晴らしいシステムである、と感じた。そういった、義務感が生じない純粋な「贈与」もこの世に増えてもいいと、私はこの企画を通して思いました。





嬉しい変化はまだある。今まで、両親や友人からたくさんのものを受け取った中で、「返さなきゃ」「私が世界に対して出来ることをしなきゃ」など、そこにマストが生じていた。しなきゃいけない、やらなきゃいけない、こんなにしてもらったんだから、こんなにももらったんだから、私は何かをしなきゃ「いけない」と感じていた。だけど、日々こうして「贈与」がたくさん含まれているのを感じることが出来るようになって、それはマストではなくウォントになった。しなきゃいけない、ではなく、したいへの変化である。私が世界に対して出来ることはなんだろうか、と自問するようになった。世界は贈与でできている、であるのならば、私が世界に対して出来ることはなんだろう、と考えられるようになった。本当に、世界は贈与でできているんだよ。

 

実家に帰省した。短期間ではあったけど、両親からの愛は今まで以上に感じることができた。車での送り迎え、お昼ご飯へ一緒に行くこと、うどんをご馳走してもらうこと、お酒をご馳走してもらうこと、一緒に夕ご飯を食べること、電車まで送ってもらうこと、夕飯に餃子を作ってくれたこと、お土産にと、たくさんの食品をくれたこと、今まで当たり前だったかもしれないそんな些細なことで、涙が出そうになるくらい私はそこに愛という名の「贈与」を感じることができたのだ。それはとても、幸せなことであるし、とても、嬉しいことでもある。それは本当に、幸せなことなんだよな。

 

 

こうして、この企画を通して、日常の変化は訪れた。

今後は、この純粋に嬉しさをいただいた純粋な「贈与」をどうにかして「交換」して行きたいと思っている。

どういう風にして私から世界に「贈与」出来るのか、それはまた別のお話、ということで。