日常ってなんなのか。今は伊勢のゲストハウスにいて、目の前にいる人たちやその状況と向き合って、画面の奥にいる人じゃなくて、今ここにいる人たちに向き合いたいってずっと思ってきた。だけどそんな、わたしが思っていた日常がいつの間にか変化していって、画面の奥にいる人が今ここにいる人たちと同じくらい大事な状況になってきた。これは、わたしの日常なんだろうか?そもそも、日常ってなんだろう?
先月、熊本のエコビレッジで出会ってしまった恋人。会った瞬間に、この人だ!っていう直感があった。好きなものも、タイミングも、笑ってくれるところも、いろんなことのタイミングも、興味のあるものも、似ていた。こんな人、いるんだあって思った。ここだけの場所にしたくないって強く思って、出会って4日目にお付き合いすることになった。その3日後には帰る予定だった彼。予定通りに帰宅してそれから、ほぼ毎日電話していた気がする。目の前にある日常よりも、画面の奥にいる人に向き合いがちになった瞬間だった。わたしはそれを、いいものとして捉えてはいない。せっかく今ここにいることで、出会った人や環境、感情があるのに、それを差し置いてまで、画面の奥にいる人を重要視する意味ってあるのかなあって。画面の奥にいる人に注視し過ぎて、目の前が疎かになる日常が嫌だとわたしは考えている。何で嫌なのか、それは今ここにいるその場所を共有している人たちと今ここを共有したいと考えているから。もったいない、と感じているから。せっかくその場所で過ごしているのにそれが感じられない日常ってもったいないって思うの。だから、嫌だと思っていた。
それを友人に話したら、『日常になるって幸せじゃーーん!なんで嫌なの?』と言われた。なるほど、日常って幸せなんだ。頭から離れないって幸せなんだと思った瞬間だった。今まではずっと、目の前にいる人と向き合わない=悪、と捉えていた。それはきっと、過去にわたしがそういった経験をして来てすごく嫌だったから。その嫌な気持ちを相手に伝えることもせずに、自ら離れていった経験があるから、なんだと思う。目の前の環境に向き合うことと、画面の奥にいる人に向き合うことは、同じことなのかもしれない。しないから悪、ではなくてわたしなりの日常を見つけられたらいいのかもしれない。電話しすぎない、とか。目の前の環境は最低限楽しむ、とか。最低限っていうのはわたしが苦しくない程度にってこと。考えたらきりがないくらい、現代はネット社会だ。かつてわたしにとって悪だった今ここにいるのに画面の奥にいる人を見続ける人、にわたしも無意識になっているのかもしれない。それでもきっと、これが日常なのかもしれないとも思う。これもまた、日常なのかもしれない。ただ、依存しすぎないように。依存しすぎて、目の前の環境を見失わないようにしていきたいなあって今は思っているよ。