4月から働こうと思っていたバイト先の面接がコロナで延期になって、とりあえず親友と恋人に会うために大阪に行ってきた。一言で言えば、疲れたなあ。どうして疲れているのか、色々あるんだけど、都会って疲れるなあっていう意識変化の話をしようと思う。
都会は、とにかく人が多い。コロナで外出する人が減っているとはいえ、もともとの人口が多い文分、日常的に動いている人も多い。今まで、どちらかというと、都会で暮らしてきた。新潟、埼玉、仙台、大阪。すべて、割りと大きい都市で、なにも不自由なく暮らしてきた。物が多い。なんでもあるということ。なんでもあるということが、当たり前のこととして生きてきた。それが今、違和感のあることとして存在していることもまた確かなこと。ものが当たり前にあるということ。ありすぎるということ。化粧したいときに選択肢は無限にあって、洋服を購入するにも無限に存在する。食べたいご飯も何もかも、私たちは無限に存在する選択肢の中から、自分が欲しているものを選択する。それだけ、多くのものが世の中には存在している。それが、違和感だと思うようになった。友人が言っていた。『テーマパークみたいだよね』と。たくさんの物が販売されている不思議。今わたしは、欲しい!という感情は特にない。物欲が存在しない暮らしをしているのだと思う。来月の誕生日、親友に何をもらおうかと考えてみても見つからない。むしろ、彼女がわたしのために何か創作してくれたらそれが嬉しいなあと感じるようにもなった。彼女がわたし、のために作るもの。それは唯一無二。そんなあっかい、温度があるものが欲しいと思うようになった。そんなものは、テーマパークに置いていない。
だからだろうか。親友の新居にお邪魔したときも、違和感だった。物があるという暮らし。そこにあるのは、その人と旦那さんだけという暮らし。温度があるのはふたりだけ。ふたりの世界。ふたりの暮らし。ものがあって、もので補っていく生活。それが、今のわたしにはとっても違和感だった。誰かが言っていた。人と一緒にいるってことは、映画に行くとか水族館に行くことだけじゃない。それが永遠じゃない。私たち二人でクリエイティブなことをしていくこと。それが一緒にいる意味だと。生活もクリエイティブにしていく。ふたりで、作り出していくのが生活。そんな関係を作り出していくのが恋人だと。今ならその意味がわかる。料理をふたりで作り出していったり、何かを共有したりすること。そんなふたりでありたいとわたしも思うようになった。結婚、が心地良いものに思えなくもなった。結婚を選んだとき、選んだ方が心地良い生活が送れそうなとき、わたしはその選択をするのだろうけど、今はしたいと思えなくなった。誰かが作り出した制度。それを正しいと受け入れるわたし。それが、本当に幸せなのか。幸せの価値観が変化している。一緒にいられれば、それが心地よさなんじゃないかな。わたしにとっての心地よさが少しずつ変化している。もので、解決したくない。わたしが今出来ることで解決していきたいなって。