高野山武将の墓 | 脇坂家の墓 - 関ヶ原で活躍し龍野藩主になる! | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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高野山の武将の墓めぐり、脇坂家のお墓です。

人物名墓のある施設住所
脇坂家高野山奥之院和歌山県伊都郡高野町高野山
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脇坂家の墓は高野山奥之院にあります。
右地図は奥之院の弘法大師御廟をマークしてありますが、墓は一の橋から弘法大師御廟へと続く参道にあります。
くるまr高野山周辺には数か所の無料駐車場があります。

現在とは異なり、武将の墓は一つとは限りません。
ゆかりの地であったり、死亡した場所であったり、子孫が治めた地であったり、日本全国に墓が数箇所存在する武将も少なくありません。

高野山にも、理由は様々なようですが数多くの武将や藩主の墓があります。
一度にたくさんの武将の墓を見るならば、高野山がお薦めですよ。

関ヶ原で活躍し龍野藩主になった脇坂家
脇坂家(わきさかけ)が繁栄を遂げたのは脇坂安治(わきさかやすはる)の代のことでした。
安治は近江に生まれて浅井長政に仕え、浅井家滅亡後は織田に仕官し明智光秀の与力として活躍します。
その後、羽柴(豊臣)秀吉に仕え、柴田勝家との戦い(賤ヶ岳の戦い)で功名をあげて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられました。
関ヶ原の合戦後、本領を安堵されて淡路洲本に立藩し、慶長9年(1609年)には伊予大洲へ転封となりました。
その後の脇坂家は、元和3年(1617年)に信濃飯田へ、さらに寛文12年(1672年)に播磨龍野へ転封となり明治まで続きます。


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脇坂家の墓。



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脇坂家の墓アップ。


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奥之院にある武将の墓一覧です。

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