武将の銅像 | 大友宗麟の銅像 -キリシタン王国の建国を夢見た大名!異国人っぽい銅像 | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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武将の銅像めぐり、大友宗麟の銅像です。

人物名銅像設置場所住所
大友宗麟JR九州 大分駅大分県大分市要町1
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大友宗麟の銅像はJR九州 大分駅にあります。
像は2015年2月に現在地に移動されました。
なお、写真に写る背景は移動される前のものです。(地図の場所はあってます)

くるまr駅に確か停められたような気がします。

家督を継いだ二階崩れの変
大友宗麟は大友義鑑の嫡男として生まれますが、 宗麟20歳の時、父・義鑑は宗麟の廃嫡を企てます。
しかし、その企みは宗麟派重臣によって阻止され、義鑑は手傷を負い、その傷がもとで亡くなります(二階崩れの変)。
こうして宗麟は家督を相続。大友氏21代目の当主となりました。

6か国の大大名へ
家督を継いだ宗麟は精力的に領土拡大を図ります。
周防の大内義隆が陶晴賢(隆房)に討たれると、実弟を大内家へ送り込み次期当主の座に据え、大内家との領土争いにピリオドを打ちます。
その後は、肥後の菊池、少弐、龍造寺、筑前の秋月、宗像らと戦い、最盛期には筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の6か国を領する大大名となりました。

キリシタン入信と大友家の衰退
天正6年(1578年)、宗麟はキリシタンの洗礼を受け、キリスト教徒となります。
洗礼名は「ドン・フランシスコ」
キリシタンとなった宗麟は家臣にも入信を勧めますが、仏教徒との軋轢も起こり、婦人とは離縁する結果となっています。

同年、日向へと進行した島津軍と戦うため、宗麟は大軍勢を率いて南下します。
その際、キリスト教に傾倒し始めた宗麟は道中の寺社を破壊して進んだといいます。
そして、日向の無鹿(むしか)に到着した宗麟は教会建設を命じ、肝心の戦には参戦しないという事態まで起きてしまいます。
当然、家臣たちの士気は低下。大友軍は島津に大敗し将兵を数多く失ってしまいました。

大友家の支配力は次第に低下し、それに伴い島津、龍造寺、秋月の勢力が拡大。 宗麟は領土の多くを失うこととなります。
そして、宗麟の重臣・立花道雪が没すると、島津は北上を開始します。
しかし、宗麟には太刀打ちできる力は残されておらず、大阪城の豊臣秀吉に謁見し、助けを求めます。
それにより秀吉の島津征伐が始まり、宗麟は九死に一生を得ました。
しかし、宗麟の運命はそれまでで、その後すぐに世を去っています。


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大友宗麟の銅像全景。
(2015年2月に移動されました。この写真とは場所が違っています)



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アップ。
マント着けてますね。
さすがキリシタン大名ヽ(゚◇゚ )ノ



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さらにアップ。
十字架を掛けてます。
クリスチャンネームは`ドン・フランシスコ’です。



do_sourin04
別角度から。
ちょっと異国人っぽいですね。
よく見ると刀の鍔も十字になってます。


宗麟公園にある大友宗麟の銅像2はこちら。

宗麟公園にある大友宗麟の銅像3はこちら。

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