「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の銅像めぐり、大友宗麟の銅像の紹介です。
人物名 | 銅像設置場所 | 住所 |
---|---|---|
大友宗麟 | 宗麟公園 | 大分県津久見市津久見 |
駐車場があります。
家督を継いだ二階崩れの変
大友宗麟は大友義鑑の嫡男として生まれますが、 宗麟20歳の時、父・義鑑は宗麟の廃嫡を企てます。
しかし、その企みは宗麟派重臣によって阻止され、義鑑は手傷を負い、その傷がもとで亡くなります(二階崩れの変)。
こうして宗麟は家督を相続。大友氏21代目の当主となりました。
6か国の大大名へ
家督を継いだ宗麟は精力的に領土拡大を図ります。
周防の大内義隆が陶晴賢(隆房)に討たれると、実弟を大内家へ送り込み次期当主の座に据え、大内家との領土争いにピリオドを打ちます。
その後は、肥後の菊池、少弐、龍造寺、筑前の秋月、宗像らと戦い、最盛期には筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の6か国を領する大大名となりました。
キリシタン入信と大友家の衰退
天正6年(1578年)、宗麟はキリシタンの洗礼を受け、キリスト教徒となります。
洗礼名は「ドン・フランシスコ」。
キリシタンとなった宗麟は家臣にも入信を勧めますが、仏教徒との軋轢も起こり、婦人とは離縁する結果となっています。
同年、日向へと進行した島津軍と戦うため、宗麟は大軍勢を率いて南下します。
その際、キリスト教に傾倒し始めた宗麟は道中の寺社を破壊して進んだといいます。
そして、日向の無鹿(むしか)に到着した宗麟は教会建設を命じ、肝心の戦には参戦しないという事態まで起きてしまいます。
当然、家臣たちの士気は低下。大友軍は島津に大敗し将兵を数多く失ってしまいました。
大友家の支配力は次第に低下し、それに伴い島津、龍造寺、秋月の勢力が拡大。 宗麟は領土の多くを失うこととなります。
そして、宗麟の重臣・立花道雪が没すると、島津は北上を開始します。
しかし、宗麟には太刀打ちできる力は残されておらず、大阪城の豊臣秀吉に謁見し、助けを求めます。
それにより秀吉の島津征伐が始まり、宗麟は九死に一生を得ました。
しかし、宗麟の運命はそれまでで、その後すぐに世を去っています。
宗麟公園
銅像のほか、大友宗麟のお墓もあります。
武将の銅像 TOPページへ戻る
日本全国の武将の銅像を紹介しています。
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。
youtubeはじめました。
甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。
チャンネル登録よろしくお願いします。
ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」、
かわいい「たぬきサムライのスタンプ」などなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。
ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。
ご使用等に関してはこちらまでお願いします。
この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!
ズルしちゃだめですよ。
© 2010-2023 siro-sengoku-bushou.