武将の銅像 | 新発田重家の銅像 - 謙信に仕えるも景勝には刃向う!穏やかな顔の銅像 | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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武将の銅像めぐり、新発田重家の銅像です。

人物名銅像設置場所住所
新発田重家福勝寺新潟県新発田市中央町
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新発田重家の銅像は福勝寺にあります。
くるまrお寺に駐車できます。

謙信から上杉家に仕えるも景勝に弓を引く
銅像のある福勝寺は新発田重家の菩提寺です。

新発田重家は謙信時代から上杉家に仕え、川中島をはじめ、多くの合戦に参加し功を立てています。
謙信の死後、景勝と景虎との間で家督争いが起こる(御館の乱)と、景勝に味方し、景勝の勝利に貢献しました。
しかし、戦後、景勝からの恩賞はなく、その後も重く用いられる事もなかったため、しだいに主君・景勝に不満を持つようになります。
そして、御館の乱から3年後の天正9年(1581年)、重家は隣国の伊達輝宗、蘆名盛隆らの誘いに応じ景勝に反旗を翻すと、 西から攻めあがる織田勢とも連携を取り景勝軍と対峙しました。

上杉相手に善戦する重家でしたが、重家を取り巻く環境が次第に変わっていきます。
一年後の天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって頼みにしていた織田軍が撤退。
天正12年(1584年)10月、蘆名盛隆が家臣に殺される。
翌天正13年(1585年)5月、伊達輝宗から家督を譲られた政宗と蘆名との間で争いが始まり、政宗は重家への助力を放棄。

そして、天正15年(1587年)10月、秀吉の力を借り強大となった景勝軍によって6年に渡る重家の乱は鎮圧されました。

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新発田重家の銅像全景。



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アップ。



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別角度から。



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アップ。
意外と穏やかなお顔ですね。


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