娼婦ラハブの信仰の基盤は? | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

前書き


できるだけ毎日聖書から霊的食物が得られるようにするため、本日より 「今日この日のためのパン」


と題して新たに記事を更新してゆきたいと思います。 自分自身のためにも、そしてこれを見てくださ


っている人たちにとっても、何かの益になりますように。 また、私自身も生身の人間なので、何らか


の体調不良や予期せぬ出来事のために更新が滞ることもあるかもしれませんが、その点につきまし


ては予めご了承ください。 またこれ以外にも何かの話題のネタがありましたらその都度記事にして


ゆきたいと思います。 とりあえずマタイの福音書から始めたいと思います。


マタイ 1:1~


聖書に出てくる系図の表記は、特別の場合を除きほとんどが男子の名前なので、女子の方たちにと


っては少々寂しさを感じることでしょう。 しかしよく考えてみれば多くの場合ただ名が記されているだ


けにすぎません。 逆に女子の名が記載される時は、特別の信仰や勇気を示した例であり、1:3 の


タマル、1:5 のラハブとルツ、1:16 のマリアなどがおり、1:6 の場合は不法が関係していたた


めバテシバという名前ではなくウリヤの妻として記載されています。 


系図のこの部分だけを見ても、キリストに至るまでの胤に係わった女子の例から、公正な神の特質


や信仰中心の神の物事のとらえ方を知ることができます。 またこうした表記は、頭の権という権威を


重んじる精神を人々に常に意識させ、結果的に平和に係わる良い意味でのマインドコントロールが国


民としてなされることになっていました。 ひとたび誤用されると悲惨な結果を招きますが、本来は、


神権的もマイコンも正しく用いれば、神から出るものはみな永遠の益のためになる良いものです。


また男女平等と男女同権とは違うという識別力も得られるでしょう。


今日はこの系図の中で特に 1:5 のラハブに注目してみます。 彼女はヨシュア2:1 にある通り


遊女、つまり娼婦でした。 こうした職種には成りたくてなる人はまずいないでしょう。 生きてゆくた


めにやむを得ない特殊な事情でそうなるのです。 それである意味彼女たちには非がありません。


彼女たちがそうした屈辱的な状況の中で何とかやっていけるのはなぜでしょう? それは心と体を完


全に切り離して捉えているからです。 実はこうした戦略はクリスチャンにとっても逃れ道となる場合


が少なくありません。 自分の意に反して体が権力や力によって不当に扱われる際に、心を守る、ま


たは最も優先すべきものを守るための最大の防御となるからです。 特に権力の餌食になりやすい


女性の場合はなおさらです。 


ヘブライ語聖書中で、家族が絶体絶命のピンチに陥った際、女性を権力者また暴徒に差し出すという


行為に至った例がいくつか見られますが、最後の切り札としてのこの戦略の精神を理解しておくと、


現代人からは非人道的にも見えるこうした行為の意味をある程度理解できるかもしれません。


反対に、日本の武士道のように心と体が何が何でも切り離せないなら、集団自決という行為に至るこ


とでしょう。 真のクリスチャンはこうした行為はしないでしょう。 生きていてこそ神に仕えることがで


きるからです。 ただし心を守るために体が殺されることと混同してはなりません。 こちらがクリスチ


ャンだからです。 あくまで自分の意に反して体が権力によって強制される場合の戦略です。


この点でラハブはよい模範となっています。 彼女の心は娼婦の時からずっと神の民の側にありまし


た。 イスラエルの二人の斥候が彼女のところに来たのは偶然ではなく神の導きによるものでしょう。


彼女の祈りは聴かれたのです。


それで私は、マルコ 7:15 の 「外から入って行ってその人を汚すことのできるものは何もありませ


ん」 という聖句が好きです。 これまでに口ではとても言えないような屈辱を肉体に受けてきた人た


ちはこの言葉から安らぎと慰めを見出せるでしょう。 人が行えるどんな凌辱もせいぜい肉体どまりだ


からです。 その人がそこで完全に切り離してしまえば決して心までは届きません。 


とはいえ、大群衆が大患難を生きて通過するとき、まさにその瞬間に古い肉体は濃密な聖霊の中で


まったく新しい肉体に造り替えられているでしょう。 以前の体は過ぎ去ったのです。