1977年熊本大学の宮家(ミヤケ)隆次らは、再生不良性貧血患者の尿2.5トンから精製をはじめ、10mgの純化したエリスロポエチンを精製することに成功した。





この純化標本から、エリスロポエチンのアミノ酸配列が決定され、1985年、ついにエリスロポエチンの遺伝子クローニングに成功、今日の腎性貧血患者治療の道が開かれることになりました。



この宮家博士の功績は誠に偉大なものですが、その後、このエリスロポエチンの特許取得をめぐっては、激しい企業競争が繰り広げられたようです。





以下、岸本忠三/中嶋彰『現代免疫物語』p.187 – 190からの引用です。



『一九七〇年代半ば、大切な「宝物」を携えて日本を離れようとしている研究者がいた。熊本大学の宮家隆次。再生不良性貧血の患者の尿を携えて、彼は米国のシカゴ大学のE・ゴールドワッサーのもとへ向かおうとしていた。






宮家はどうして、こんな風変わりな行動を思い立ったのか。実は貧血患者の尿の中には、血液の赤血球を増やしてくれる分子が大量にある。





そこで、宮家はこの 分野の第一人者、ゴールドワッサーのもとでこれを精製しようと考えた。この分子こそ、今、大型バイオ医薬「赤血球増多因子(エリスロポエチン=EPO) として知られる情報伝達分子である。 



宮家がゴールドワッサーを訪ねた甲斐はあった。彼らは一九七七年、尿の中から赤血球増多因子を抽出、精製することに成功した。 だが、この後、彼らには数奇な運命が待ち構えていた。





赤血球増多因子が巨大な医薬となるとみた有力ベンチャー二社が、赤血球増多因子の生成に成功した二人に接近、ゴールドワッサーと宮家は袂を分かつことになるからだ。 





ここで登場するのはバイオ分野で輝かしい成功を収めた代表的なベンチャーとして語り継がれる米アムジェン、そして同社と争った米ジェネティクス・インス ティテュートだ。





ゴールドワッサーはアムジェンと共同で、宮家はジェネティクスと一緒に、赤血球増多因子の商業化をにらんだ研究を開始した。 





アムジェンは遺伝子組み換えの手法で赤血球増多因子を生産するときに不可欠な中間物質の遺伝子を突き止めて配列を解読し、これを特許に申請。





一方、ジェネ ティクスは天然の赤血球増多因子のたんぱく質をより正確に生成し、たんぱく質そのものを特許として出願する戦術を採用した。 





両社は一九八七年から足かけ五年にわたる特許係争へと突入した。そして米国で最後に勝利を収めたのはアムジェンだった。一九九一年十月八日、米最高裁はジェネティクスの上告を棄却する形で赤血球増多因子の基本特許はアムジェンが有している、と認めるに到った。 


赤血球増多因子は、遺伝子工学の手法で作られた医薬として大きな市場を形成した代表的な医薬となった。遺伝子創薬史というものがあるとすれば、間違いなく歴史に名を刻まれるべきバイオ医薬である。』