雲仙岳は、長崎県の島原半島中央部にある火山で
千々石カルデラ外輪に位置する。
広義では普賢岳、国見岳、妙見岳の三峰、野岳、九千部岳、
矢岳、高岩山、絹笠山の五岳からなる山体の総称で
「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる。
主峰は普賢岳だが、1990年から1995年の火山活動で平成新山が出来、
こちらの方が標高が高くなった。
1990年11月に山頂付近より噴煙が立ち上り噴火した。
この噴火は2つの噴火孔より熱水の吹き上げと
雲煙を認めるのみであった。
同年12月には小康状態になって道路の通行止めも解除になったが、
1991年2月に再噴火し、その後噴火を拡大していった。
5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生、
5月20日には地獄跡火口から溶岩の噴出が確認された。
溶岩は粘性が高かったために流出せず、
火口周辺に溶岩ドームが形成された。
溶岩ドームは桃状に成長し、やがて自重によって崩壊した。
その後も溶岩ドーム下の噴火穴から絶え間なく溶岩が供給されたため、
山頂から溶岩が垂れ下がる状態になった。
新しく供給されるマグマに押し出されたドームが斜面に崩落し、
破片が火山ガスとともに山体を時速100kmものスピードで流れ下る
メラピ型火砕流と呼ばれる現象を引き起こした。
噴火活動は途中一時的な休止をはさみつつ1995年まで継続した。
火砕流が世界で初めて鮮明な映像として継続的に記録された噴火活動であった。
噴火活動は島原半島、特に島原市と深江町に大きな被害をもたらした。
被害をもたらす主たる要因は
火砕流と堆積した火山灰が豪雨により流出する土石流であり、
これらが流れ下る水無川と島原市千本木地区が大きな被害を受けた。
1792年の島原大変肥後迷惑の原因となった眉山の山体崩壊が懸念されたが、
今回の噴火活動では眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となった。
メディアは火砕流の様子を捉えるため、
避難勧告地域内だが溶岩ドームから4.0km離れ、
40mの高台にある北上木場町の県道を撮影ポイントとするようになった。
この場所は普賢岳を真正面に捉えることが出来たためメディアに好まれ、
いつしか「定点」という呼び名が定着した。
こうして1991年5月の火砕流発生以降、
「定点」には10数台の報道関係車両が並ぶ状況となった。
5月28日に毎日新聞が火砕流の夜間撮影に成功すると競争は更に激化した。
火砕流が初めて鮮明な映像として記録されたことは世界中から大きな注目を集め、
多くの火山学者や行政関係者が避難勧告地域に立ち入り取材や撮影を行った。
6月3日15時30分以降、小・中規模の火砕流が頻発し、
15時57分には大規模な火砕流が発生した。
この火砕流と火砕サージは報道陣がいた「定点」には至らなかったものの、
朝から降り続いた降雨に加え、火砕流からの火山灰が周囲を覆ったため、
「定点」付近の視界は著しく悪化した。
続く16時8分、1回目を上回る大規模な火砕流が発生し、
溶岩ドームから東方3.2kmの地点まで到達する。
火砕サージは更に溶岩ドームから4.0km先にある北上木場町を襲い、
南からの突風で「定点」方面に流れた。
火砕流の襲撃を受けた「定点」の報道関係者は、
チャーターしたタクシーや社用車をエンジン南に向けて
エンジンをかけたまま道路に止めていたものの、視界が悪く、
逃げ道となるべき風上から流れてきた火砕サージの襲撃を受けたため、
ほとんど退避できなかった。
一方、農業研修所の消防団員は火砕流の轟音を土石流発生によるものと誤認し、
水無川を確認するため研修所から出たところを火砕サージに襲われた。
結果、農作業中の住民4名、報道関係者16名、火山学者ら3名、
警戒に当たっていた消防団員12名、避難誘導の警察官2名、
報道関係者に傭車され独断避難できなかったタクシー運転手4名、
市議会選挙ポスター掲示板を撤去作業中だった職員2名、
合わせて43名の死者・行方不明者を出す惨事となった。
なお、火砕流で死亡した日本テレビのカメラマンが使用していた
業務用ビデオカメラが、2005年になって発見され、
内部のテープを取り出し修復することに成功した。
ビデオには、最初の火砕流の様子を伝える記者たちの様子や、
二番目の大火砕流接近に気付かないまま
「定点」が襲来される直前まで取材を続ける記者や、
避難を広報するパトカーの姿や音声が記録されていた。
この映像は「NNNドキュメント'05 解かれた封印 雲仙大火砕流378秒の遺言」として放送され、
現在では溶けたカメラと共に雲仙岳災害記念館に展示されている。
がまだすドームとは、1990年に始まった平成噴火から1996年の噴火終息宣言までに
この地で何が起き、そして、何が残ったのか、
自然の脅威・災害の教訓を風化させることなく
後世へ残すことを目的とした火山体験ミュージアムだ。
ドーム型スクリーンで火砕流・土石流を擬似体験できる平成大噴火シアターを始め、
火山・防災について11のゾーンに分けて展示をしている。
7年の歳月を費やして築いた島原城がある。
周辺は江戸末期に松平 7 万石の城下町として栄えた地で、
雲仙普賢岳の伏流水が湧水する水の都として有名だ。
鯉が泳ぐ水路や清水が湧き出る水吞場が点在する。