sicky

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Rock 'n' Roll

Amebaでブログを始めよう!

どうも、ネイティブの英語なんて信用なんねぇぞ太郎です。

 

突然ですが、いや突然でもないのですが、今年いっぱいでsickyを引退することに決めました。つまりはブログの更新をやめ、sickyのサイトの更新もやめ、インスタグラムの更新もやめるということです。sickyとしての活動は、すべて終わらせます。通り一遍のご挨拶で恐縮ですが、今まで大変長らくお世話になりました。ご支援くださった方、ご批判くださった方、すべての方々に心よりお礼申し上げます。

 

引退の理由は、前回の記事でおおむね語っております。

 

まぁ、僕が引退したところで何てこともないと思うのですが、もしかするとガッカリされる方もいらっしゃるかもしれません。ご期待に添えず申し訳ない。

 

年内はできるだけブログも更新しようかと思います。鼬の最後っ屁ってやつですか。最後ですからね。もし僕に何か言いたいことや訊きたいことがあれば、今のうちにどうぞ。ふざけた返答しかしないかもしれませんが、年内であればご返答差し上げますので。それ以降はもうありません。

 

言ってももう10月も終わり。2018年も間もなく終わりますね。終焉間近です。

 

sickyとしてやってきて、もうかれこれ十数年くらい経つんでしょうか。僕にこの名前を与えてくれたのは、かつてのバンド仲間でした。もうずいぶんと昔のこと。「シッキー」という語感と意味合いが当時の自分にマッチしているようで、とても気に入ったものです。今考えてみれば、俺に「シッキー」なんて名前をつけやがった奴もたいがい失礼ですけどね。とんがっていた当時の自分からすれば、それもどこか心地よかったのでしょう。

 

sickyならではのご縁もありましたし、音楽を通して誰かに感動を与えたり、喜んでもらえたりしたこともありました。様々な作品に関わらせていただき、ありがたく思っております。

 

しかしもう間もなく死にますわい。

 

僕は生きてますよ。シッキーは死ぬということです。というか、実はとっくに死んでいたのではないかということで。延命措置でダラダラやるつもりはございません。改めて語る必要もないと思いますので割愛します。

 

結局、シッキーってのは何者だったのか。今になって考えております。

 

僕にとって「シッキー」ってのは、愛すべき二つ目の名前であったと同時に、誰にでもある“いけない部分”の象徴でした。人間、誰しも表の部分と裏の部分があると思います。澄み渡った空を見て美しい気持ちいいと思う反面、死者を冒涜するようなホラームービーを見て喜ぶ。暴力は野蛮!なんて言いながら、格闘技には子宮をキュンキュンさせるヤバイ女もたくさんいますわ。後者の、人として動物としての本質こそ、シッキーだったのだと思うのです。僕からすれば自分よりも、良識ぶった知識人や偉そうに倫理を説く坊主、名士と言われる社長や議員連中の方が遥かにsicky(病的)でした。

 

しかしどうやら僕も人としてそれなりに成熟してしまったようで、人の心の痛みや苦悩、そういったものに素直に共感し同調するようになってしまった。昔は若さで甘ったるい感情をはねのけていられたんですけどね。

 

しかしこれは人間としてはいい兆候だと思います。この歳になって、人をバカにしたり安易に批判したりするような言葉は吐けないし、作品に憎しみや怒りを込めることもできなくなってしまった。もともとそんなことをしていたつもりはありませんが、単純に人間のネガティブな側面を「美しさ」として捉えられなくなってしまったのです。

 

それは、生身の人間というものを身近に、リアルに感じるようになったからでしょう。イメージではなく、現実的な苦悩や悲痛、悲劇というものを目の当たりにするに従い、空想の世界で人間の醜悪さを美しさに転換し、それに恋い焦がれていた自分はいなくなってしまった。担当者不在のヘルプデスクです。

 

「優しくなった」「丸くなった」といえば聞こえはいいですね。要するに老化だと思います笑。攻撃的であったり、時に無謀であったりするような軽率な物言いができなくなってしまった。心が痛むんだ。

 

違う美しさに転向するのもいいでしょう。しかしそれはもう既にシッキーではありません。だからけじめをつける必要があります。

 

ただ、僕の一つの真実として、これまで僕はシッキーを演じたことはありませんでした。常にあるがまま、等身大、率直だったつもりです。それが若さゆえの軽率さや浅薄さ、無謀さを補う唯一の誠意でした。人間誰しも表があれば裏もある。しかし、そう言う本人に実は裏がなかったというオチかもしれません。まぁそんなもんですよ。暗い音楽やってる奴って、大体性格明るいのばっかですからね。

 

今も僕は誠実さとともに、正直さとともに生きています。だからこそ、シッキーではもういられないのです。

 

僕は相応に歳をくって見事におっさん化しましたが、あなた方の心の内には必ずシッキーがいるはずです。普段は立派に公務をまっとうしている男が、電車内で痴漢をはたらく。旦那の前では立派な妻を演じて、実はだらしねぇ男と不倫している。教育者ぶっているけど趣味は児童ポルノの収集。会社で部下に尊敬される上司を演じているけど、プライベートではおっパブ三昧。クールを気取りながらスマホにお気に入りのエロ動画をがっつりブックマークしているむっつりスケベもそうだし、私は清純ってツラしながら出会い系アプリをあさっている女もそう。インサイダー取引で末端を血祭りにあげる役員もそうです。俺よかお前らの方がよっぽどシッキーなんですよ。

 

ですから、シッキーはあなた達にお任せします。自分の中の狂気や病的な側面と対峙するたび、僕がシッキーとして発信したかったメッセージを思い出してみてください。世の中、美しいことばかりじゃない。醜悪の美。それこそが人間の真実なのだと。それでシッキーは生き続けます。

 

こうやってダラダラ書くのはやっぱり心地いいですけどね、もう未練はありません。2018年、この年で終わりにいたします。残り短い間ですが、引き続きよろしく。

 

 

どうも、シルベストル・マトリョーシカです。

 

ネット黎明期に、個人のいわゆる「日記」ってのが流行(?)した時代がありました。若い方は知らないかもしれませんね。僕の世代はちょうどファミコンから家庭用コンピューターに触れ始め、成人する頃には一太郎と花子が台頭していた時代でございます。今はオフィスとアドビの時代。一太郎花子の当時の勢いを知らない方は、クインシー・ジョーンズの凄さを知らない方と同じくらい増えているのだと思います。プログラマーという職業が爆発的に増えた世代。個人が世界に向けて(いるつもりで)サイト作りを頑張っていた世代です。

 

僕の親世代となりますと、子供時代にカラーテレビの登場に興奮したくらいの世代になるんでしょうか。うちの父がガキの頃には、まだ街ん中で馬車が走っていたといいます。それから8mmカメラ、VHS、そしてカセットテープ、レコーダーが次々に登場。昔、父に訊ねたことがあります。「馬車が走っていた時代から今のデジタル時代まで生きていて、この時代の変遷をどう感じているの?」と。

 

返答は至って淡白で、「自然と変わっていったから何も感じないよ。当たり前に受け止めてきた」といった具合。

 

僕の場合もそうで、まさかデジタルで真空管の音を再現するプラグインが登場するなんて思ってもいませんでしたし、増してスマホね。タッチパネルでガジェットを操作して、必要なときには撮影をし、録音し、メモし、編集まで手元一つの端末でするなんて、こりゃガキの頃の自分が見たら腰を抜かすようなテクノロジーだなあなんて思うんです。アプリで当たり前のように機能変革。リバーブかけるために数万の投資をしていた昔がばかばかしく思えます。当たり前に受け止めてきましたが。

 

僕もいつかは普通のサラリーマンになって、アナログに働いているんだろうなぁという漠然としたビジョンも昔はありました。こんなに社会が変わるとは思っていませんでしたから。しかしいつの間にかクライアントとクラウドでデータを共有し、デジタルベースで仕事をするようになっていた。会社に就職しなくても個人で稼げる時代になっていた。僕なんて所詮社会不適合者でしょうから、計算機科学の発展に救われたところがあると思います。

 

時代の移り変わりって、人生にダイレクトに影響するもんだと思うんですよね。

 

そこでふと思うのが、「どうしていまだこうして、過疎化しているブログを書き続けるのか」ということ。

 

物書きというと、過去作を紙媒体でアピールするのが当たり前の時代がありましたが、今はそうではありません。オウンドメディアで情報発信するにあたり、個人ブログやSNSアカウントの情報を求められる時代です。言うまでもなく、僕はこのブログを商材として活用したことはありません。こんなしょうもない文章をダラダラ綴っているブログに、商業的価値なんてありませんから。当然カードにはならないわけです。

 

それでも当初は、ブログを書く理由というのは明確にありました。

 

一番は、ストレス解消です。

 

やっぱり「書く行為」というのが好きなのですよ。増して仕事で文章を書いていると、時折目的意識のない駄文を連ねたくなることがよくあります。それを担うのがブログ。そんなわけで、かれこれ二十年近く、最初は日記というものから始まって、いつしかブログに移行し、こんな調子でやってきました。

 

最初の紙媒体とのご縁もすごく印象的です。出版社から本の出版を打診された時。

 

当時僕は物書きのひよっこで、いきなり出版社のよく分からないビジネスの現場に呼ばれてビビッたもんです。物書きとしてはすごく光栄な経験だったと思います。僕の作品に対して「電車内とか百貨店とか全面的に広告を打つからGOを出してくれ」と、担当者から懇願されたものでした。しかし当時の僕は素行が最悪でして、たとえペンネームだとしても公になりたくないという事情があり、度々お断りしました。本当に申し訳ない気持ちでしたよ。「どうしてそんなに拒絶するんですか!?今売れば絶対売れるのに!」ってキレられましたけども、「いや、僕素行が悪くて色々事情があって」なんて言えるはずもなく。

 

ガキだったんですわ。あの時、もし本を出していたら人生また違っていたかもしれませんね。でも、それも結局は運命です。

 

さて、ここにきていよいよ、ブログを書くという行為に目的が伴わなくなってきたと感じています。

 

その理由は色々ありますが、一つは「ブログの時代じゃない」というのを実感しているから。個人のブログなんて先細りで、いつか消えると思います。ではその先に何があるかというとSNSですね。SNSのサービスは今後、発信者のあらゆるニーズに応える形にさらに変容していくでしょう。当然ビジネス主体で活用できるツールとして、短期間ある程度までは発展すると思います。

 

もう一つの理由として、僕自身発信したいものが変わってきたということがあります。もう駄文なんていいかなって。これには色々な事情があるのですが、立場的に過激なことを書けなくなってしまったということもありますし、僕自身、「意味のない文章を発信する気力がない」というのもあるかもしれません。

 

もともとブログを通して主張したいことなんてありませんし、メッセージもありませんし、本当に気の向くまま書いてきました。しかし、今は「ブログにまで気をつかうのに疲れた」という気持ちがどこかにあります。これは僕自身の問題なのか、あるいは時代の変遷に起因するものなのか、よく分かりません。おそらくその両方でしょう。

 

単にギャラや原稿料が発生するもんしか書きたくないというわけではなく、ブログがストレス解消にならなくなったということです。そりゃもともと好きなことを書くのが目的だったわけですから、こんな“言葉を選ばなきゃならない”なんて状態になったら、本末転倒ですよ。ここで書く意味がない。

 

こういう理由で、そろそろブログをやめようかなと思っております。

 

やめたらやめたで「また駄文を書きたい」なんて思いに駆られるかもしれません。しかし、しっかりけじめはつけたい。

 

思えば、所詮日記やブログとはいえ、今まで色々なことがありました。昔は過激なことも平気で書いていましたから、お叱りをいただくこともあったのですよ。わざわざクレームくださる方も、勇気が必要だったと思います。キチガイじみたことを公衆の場で発信する奴に文句を言うのも楽な作業ではないでしょうから。ですから僕は、すべてのクレームに真摯に対応してきました。先方からすりゃ「あれ?」って拍子抜けだったかもしれません。謝罪だってします。過激なことを言うってのは、謝る覚悟がなければできないものですから。

 

しかしそういうことも色々あって、次第に色が薄れ、それでもできるだけ書きたいことをそのまま書き、極力誰も傷つけない文章ってのを心掛けて今に至ります。

 

昔は誰かを傷つけるくらいインパクトのある文章を書くところに意味を見出していたところがありました。PVを稼ぐとか炎上を狙うというのとはまた別のベクトルで、単に率直だったのです。若さゆえとんがっていたのでしょう。

 

しかし僕も歳をとりまして、なんだか性格的にもずいぶんと丸くなったように思います。戦意を失ったわけではなくてね、長いものに巻かれない気概はまだあります。ただ、どうせ何かを発信するのなら、誰かの、実質的な利益につながるような価値ある情報を発信したいと思うようになったのです。とうの昔からそうでした。

 

ブログが終焉を迎えるだろうと予測するのも、こういうところに理由があります。

 

実質本位が求められている。社会的な価値観の推移もある。多様性もある。

 

そのセオリーに乗っかって、無難で危うさを感じさせないスタイルに転向しようとは思いません。まあ、sickyとしてはある意味既に転向しているのですが、挑発のスタイルってのは変えていかないと。昔は僕も嫌いなもんがたくさんありましたが、その多くが今では嫌いではありません。それは人生経験を積むことで得た理解や寛容さによるんでしょう。

 

いまだ挑発的でありたいと思うものの、それは「好き勝手に書く」というのとは少し違うのです。逆に言えば、また過激に戻るというのも一つの選択でしょうし、自分が好きなものをとことん追究するというのも一つの選択だと思います。

 

このブログなんて、個人的に僕のことを知っている人や、ネットを通して興味を持ってくださった方、音楽あるいはVape経由の方もいらっしゃるかと思います。往年のsickyファンがもしかするとまだ見てくれているかもしれません。

 

あなた達にどれだけ価値のある情報を提供しているかというと、今となってこのブログには何の価値もないと思うのです。ごめんなさいね、これはもしかすると失礼な表現かもしれないのですけど、そもそも今の僕のブログには「近況報告」以外の価値はないと僕自身は思っています。昔から読んでくださっている方からすれば、「シッキーいつの間にこんなに退屈になったの」ってなことで。それは僕自身ももう数年前から思っていることなのですよ。

 

sickyはとっくに死んでいたのではないか。

 

今のこのブログに僕自身、価値を見い出せなくなりました。

 

過激なことも書けないし、かといってフラフラととりとめもないことを書く気分でもない。

 

ましてアメブロというメディア媒体に依存しているわけですから、それだったらワードプレスなんかを使って自分でコンテンツを作りたいというのは、クリエイターとしては自然な流れだと思います。遅過ぎるくらいですね。まぁ、商売でやるわけではないですから、タイミングなんてどうでもいいとは思います。単純にブログサービスに飽きたってことです。

 

そんなわけで、sicky引退をどういうタイミングでするか、考えております。

 

多くの方にはどうでもいいことだと思いますが、それでも中にはsickyを気にかけてくださる方などがいらっしゃると思います。数年前からsickyに幻滅している人もいるでしょうね。分かっているんですよ僕も。自覚があります。

 

ですから、けじめをつけたいのです。

 

これについてはまた追々書こうと思いますが、取り急ぎ今の気持ちを書かせていただきました。

 

ネットを通してお叱りを受けることはたくさんありましたが、同時に応援のメッセージや共感の言葉をいただくこともたくさんございました。どちらも励みになり、楽しく豊かな経験でした。

 

こんな当たり障りのない言葉にsickyとしてどんな価値があるのか僕にもよく分かりませんけども、色々な形で関わってくださった方々に心から感謝しているというのが僕の偽らざる本音です。実際に学ばされることや勉強させられること、支えられることが多かったのですよ。

 

まぁ、また別の機会に改めて色々書こうと思いますけども。取り急ぎね。

 

えー、素行の悪い旦那と掛けまして、わがままな妻と解きます。

 

その心は──

 

どちらもケンキョになりなさい。

 

おあとがよろしいようで。CU

 

 

 

どうも、関係太郎です。

 

人間関係って難しいですね。僕はもう「好きか嫌いか」で単純に人を判断するってなくらい割り切っちゃいるんですけど、それでも難しいと感じます。

 

というのもね、どうも最近、僕は友人を一人失ってしまったようで。

 

別にどちらに非があるわけではないのですよ。しかし、人間社会には政治的なしがらみや忖度がやっぱりあるのでしょうな。おまけに誤解やすれ違いなんてのもある。これがケンカ別れするのならまだいいですが、そうじゃないから困ったもんです。

 

いえね、別に悩んでいるわけではございません。ただ、どうにもやるせない気持ちになるのです。

 

好きな人と疎遠になるってのは、やっぱりあまり気持ちのいいもんじゃありません。どうしてこういうことが起こるのか。それこそ人間関係の難しさの核心なのでしょう。僕自身の未熟さや不器用さもあるのかもしれません。しかし現実問題、どれだけ円満な人間関係にも、そこにキャンサーが紛れ込むと途端にガンが広がっていく。大局的に見れば要するにキチガイじみた第三者の所業なのです。

 

人は何をもって正義となすか。人は何をもって誠意となすか。そういう道理が通じない人間も世の中にはおりまして、僕はそういう人間の扱いにはずいぶんと慣れたもんなんですが、手前の未熟な器量じゃどうにもならん事情もあります。

 

この“道理”を理解しない人間には、心底頭にきますな。

 

誰なんだそいつは。

 

いっぱいいます。

 

僕の周りにも、あなたの周りにも。

 

人間ってのは大なり小なりどこかキチガイじみていますよ。僕もそうかもしれません。しかしね、愛される人間とそうでない人間には決定的な違いがあります。たとえキチガイじみていたって、愛情や真心が髄まで沁みている人間の行動には、常に誠意があるのですよ。一方で、自己顕示欲や承認欲求、ねたみつらみが行動原理になっている人間の振る舞いには、道徳的正義がない。これが、法律で割り切れない人間的な道理の分かれ道なのだと思います。

 

僕はね、道理の分からねぇ頭のおかしい奴なんて引っ叩いてやりゃいいと思うんですよ。現代のコンプライアンスには反する考え方でしょうけれど、圧倒的な力で制圧しないと分をわきまえない小動物みてぇな人間が実際にいるのです。典型的にはパワハラ上司。あるいは陰湿ないじめを繰り返す先輩。こういう類は力で制圧するしかない。これが現実的な生身の人間社会ってやつです。

 

力を力で制圧しないといじめなんかなくならねぇでしょう。いじめられている子にまだ法律論だの弁護士だので諭しますか。いじめで自殺する子供がいまだにいるのに? バカなんじゃねぇのか。

 

人間の行動心理なんて、大人も子供も変わりゃしません。大人だっていじめめいたことをする能無しがたくさんいるのです。というか、総合的に見りゃ子供社会よか大人社会の方がいじめは多いでしょうな。パワハラ、セクハラ、アルハラ。こんな言葉がガキの間に横行するはずがないんですから。全部大人社会発端ですよ。

 

世の中は理不尽ばかり。それというのも、小賢しい知恵をつけたチンチクリンが生半可に憚っているからでしょう。

 

正義は勝つのが世の常とは思いませんが、少なくとも僕は道理の上で、正義を信じたいと思います。たとえ友人を失ってもね、それが道理の上での成り行きなら仕方のないこと。僕や、あるいは彼らの正義のために必要な代償なのでしょう。

 

しかし俺達にそんな代償を支払わせるチンチクリンは、引っ叩いてやりてぇね。あいにくそんなうす汚ねぇツラを引っ叩く手は持ち合わせちゃいねぇんで、手酢で心を清めながら寿司を握ろうと思います。

 

 

ここしばらく、本当に災害が多いですね。日本というのはもともと天災の国。その分、自然の恩恵にあやかってきたところもあると思います。しかしそれにしたって悪いことってのは立て続けに起こるものなのか、東に始まり、西に北。3.11の傷跡が癒える間もなく、災害による犠牲者は増える一方です。お亡くなりになった方やその遺族の方々には、心よりお悔やみ申し上げます。

 

ここ数年で、日本人の防災意識は高まったと思います。しかし、何事も喉元過ぎればで、これは人間の性なんでしょうかね。「自分は大丈夫」という驕りがある。時にその鈍感さは「希望」となって人に生命力を与えもします。

 

ただ、こんなに小さな島国なのに、「所詮は他人事」と無関心な人間の多さは少々不気味ではないですか。僕もそうかもしれません。メディアニュースを目にしても、実感なんて湧かないのですよ。北海道だけの話ではありません。上から下まで、災害の傷跡にいまだ苦しめられている人間がいる。それをどう実感しましょうか。

 

しかし、教訓にはできるはずです。いざというときの家族の集合場所を話し合うのだって、有事に備えて少しずつ備蓄をするのだって、決して無駄なことではありません。ご近所同士、何かあった時に家族が離ればなれになったなら、子を誰に委ねるか。教育の現場でもそういう対策を積極的に織り込むところが増えました。先生方からすりゃ負担が増える一方で、その心労や労力、ストレスたるや尋常ではないかもしれません。3.11の石巻市の現状を見れば、戦々恐々たる思いのはずです。先生方がその負担を一方的に負うというのは、本来であれば不健全極まりありません。だからこそ、地域で結束するいい機会でもあるのではないかと思うのです。

 

ところがサイコパスのような日本人が増えましたから、「自分さえよければいい」「面倒はごめんだ」「誰かが責任をとるべきだ」「触らぬ神に祟りなし」なんて思考じゃ、地域社会もへったくれもありませんわ。「手前で何とかしろ」が地域の原則になりつつある以前に、国自体が国民に対してそういうスタンスですから、これはもう救いようもありませんよ。

 

悲惨な状況を目の当たりにすりゃ、やはり日本人、目の前で苦しんでいる人のために手を差し伸べずにはいられないという方も多いでしょう。ところが、世の中は既に“そういう人が損をする図式”になってしまっています。

 

移民なんかの問題ではありません。日本社会そのもののモラルの低下です。さらに言えば貧困問題に限りなく近いでしょう。格差の問題ではありませんよ。貧困問題です。日本は総じて貧困へ向かっているのですよ。金も心も。

 

「年寄りが金を使わず貯め込んでいるから経済が停滞する」なんてのももう昔の話。我々より人生を長く生き、世の中を知っている彼らが、今後の日本を思えば貯えずに散財する方が不自然ってなもんです。おまけに彼らは現役で働いてもいます。あるいは働かされているか。街ん中で、年配者が労働している姿を見るのなんて今では珍しくありません。彼らは貯めるだけに飽き足らず、なぜまだ働き続けるか。国がいよいよ彼らから搾取しようとしているからではないでしょうか。地主もそう、農家もそう。老人にも将来を案じさせる国ってわけです。そりゃあ我々はもちろん、子供達にも未来なんてないでしょう。

 

こんな国で子供を育てたいですかね。嫌ですよ、僕も本当は。

 

しかしここに生まれてしまったのも運命。単身ならまだしも、家族で海外移住ってのは現実問題なかなか難しい話です。そこでもやっぱり問題になってくるのが金。もう世界はどうにかなってますね。

 

富豪は果報を寝て待って、貧乏人があくせく働くという古き良きアメリカや古き良き中国のような図式は日本にはもともとありません。まず富豪の絶対数が少ないですし、こんなちっぽけな島国、産業で売ることはできても資本で売ることなんてできないのが当たり前でしょう。外貨を稼ぐしかない運命ですよ。それができる産業も減ったり縮小したりしています。先細りの最中。もう五合目くらいまで来ているんじゃないでしょうかね。

 

こっから先の世代、政治に無関心ではいられないでしょうな。また、こうした現状で日本人的な美徳に生きるのも、本当にばかばかしい話です。誰にも尊敬されない、金にもならない、あまつさえ利用され搾取され殺される。

 

僕は妻の反対もあり、海外移住は半ば諦めました。息子を思えば、中東以外であればどこの国だって将来、日本人でいるよりも豊かな人生を送れるのではないかと今も思っています。いまだイエローモンキーへの差別はどこにでもあると聞きますけど、そんな問題が霞むほど日本の惨状は末恐ろしいですよ。

 

タイやベトナムなど物価が安い国に移住するのがいいかと思ったら、今度はコンドミニアム離れが騒がれている。わがままな日本人に合わせて高度な箱を作ったら、今度は「高いからイヤ」だってさ。そのせいでマーケットが縮小する。日本人への警戒心や猜疑心も募る。こりゃ日本人が嫌われるわけだ。俺もそろそろ嫌いだよ。わがままで神経質なのが多いし、要するにタフじゃないんですよ。

 

そりゃあ、腑抜けな国民どもは官からすりゃやりやすいでしょうな。

 

だから実際にやりたい放題。

 

3.11ん時は、東電がずいぶんと叩かれましたね。発電所を捨てて従業員を退避させようとしていたという話もあります。無責任なこったって非難が集中するのも仕方のないことでしょう。しかしあれ、本当に東電さんが悪かったんでしょうか。原発を採用し、それに金を注ぎ込んで推奨したのは誰だったんでしょう。

 

そんでいまだ復興していない東北。関東大震災も神戸大震災も、間もなく復興しました。ところが東北はそうはならない。これはどうしてでしょう。

 

昨今の西日本もそうです。北海道の地震であらゆるニュースが消化されていく中、広島辺りのことはもう過去のことですか?

 

どうしていまだに東西南北、被災の爪痕がこんなにも深く残っているのか。

 

考えりゃ分かりますよね。

 

国が何も担保しないからですよ。

 

民主主義とは名ばかりの、ほとんど独裁社会や全体社会や社会主義国家に近いんじゃないですか。

 

「もう民主主義じゃやってけない」ってんで、民主主義という体で何やら日本独自の「曖昧に責任を回避して国民を操作する社会」になっています。

 

でなきゃこんなに借金増えないでしょう笑

 

金のある人は、日本を離れるのがベターな選択だと思います。移住先に税金を払うったって、日本ほど負担ではないはずですから。あなたの手に職や技術があればなおさらです。今後を思えば北欧や欧州なんかが理想ですかね。台湾なんかもいいと思いますよ。ちょっと政治が不安ですが、民度的に日本人としては住みやすいと思います。タイ、ベトナム、インドあたりも、ある程度の割り切りというか、「日本人の生ぬるさ」に生理的嫌悪を感じている人にはいい国だと思います。

 

カナダやオーストラリアも悪くありません。今後の日本を思えば、移住先にそう悪い場所なんて世界広しと言えどもなかなか見つかりませんわ。僕が単身だったら、アフリカや南米だって選択肢に入りますよ。

 

一方、我々のように今後も日本で生きなければならない人間からすれば、乗り越えなければならない壁がたくさんあります。いくら少子化とは言え、我々の子供が成人する頃にはもう「就職すれば安泰」という土壌なんて見事に崩壊しているのが目に見えています。

 

僕の世代でも怪しいんじゃないですかね。どんな業種であろうと、今後需要は減っていきますよ。あらゆる分野において生産能力と技術力が落ちていくわけですから。

 

その先、日本でどうやって生き残っていくか。

 

やっぱり外貨を稼ぐしかないのかなと思うんですよね。しかも個人で。少なくとも、僕らの子供世代ではそれが当たり前になっているはずですし、国もそれを推奨しているはずです。

 

要するに、今のわがままで神経質な日本人気質ってのは、時流に逆行しているのですよ。

 

もっとタフにならなければならないのです。国政が明文化されルールが設けられインフラとサービスが充実する(しかも国が国民を搾取するという前提で)。それを当たり前のように享受する人間がこれから死に損なっていくということです。

 

倒産や合併や外資に買収される企業も増えるでしょうね。本来であれば東京という街にも魅力はなくなるはずです。しかし、鈍い日本人ですから、おそらく「東京中心」というイメージは我々の子供にも受け継がれていくのでしょう。ところが、都内の会社に就職しても求められるのはグローバルに稼げる個人能力。要するに、荒んだ職場が今よりもっと増えるということ。もっと言えば、東京に来て就職した分だけ不幸になるという未来ですよ。

 

さぁ、どうしますか。

 

有事に向けて家族の集合場所を話し合い、少しずつ備蓄しますか? ご近所同士、何かあった時に家族が離ればなれになったなら、子を誰に委ねるかというのを誰かと相談しますか?

 

もちろんそれも大切です。しかしそれ以前に、もっと重大なことを見落としていると気付きませんか。日本は社会的にもうとっくに未曾有の危機に直面しているのですよ。天災がその追い風になっています。経済難も天災みたいなもん。しかしこいつは、長く細く我々の首を絞めてくる。自分だけで終わるのならまだしも、可愛い我が子にまで牙を向く災害なんですよ。

 

自然災害への配慮は、この国に生きている以上絶対に必要でしょう。それと同じように、広い視野を持って社会というものに目を向けてみてください。天災以上に、この国におかしなものがあることに気がつくはずです。そしてそれが、もう変わりようがないものだということにも気付くでしょう。

 

この国を見捨てる覚悟ってのも、未来ある小さな日本人達のためにどうか選択肢に入れていただきたいと思う次第です。

 

 

どうも、キャプテン料理太郎です。

 

最近、料理をする男性が急増中らしいですね。ネットやSNSでも、人の手料理を目にする機会が増えました。

 

特に顕著なのがインスタグラム。

 

インスタ映えを狙って、個人であしらい(要は飾りの盛り付け)にまでこだわる方が増えているように思います。

 

しかしここで、ふと疑問が頭をよぎるのですよ。

 

あしらいってのも、大体は食用のものが多いですが、あくまで料理の「引き立て役」です。それを食べても美味しくないなんてことが珍しくありませんし、そもそも食べちゃダメなんてものもあります。

 

たとえば食用菊なんてよく目にしますが、あれだって生で食べられないことはないにしろ、別段美味しくはありません。ただ、あの鮮やかな色は料理が映えますから(いわゆるインスタ映え)、日本料理屋さんではよく目にしますね。スーパーの刺し身パックなんかにも入っています。食べないで残す人がほとんどでしょう。

 

同じ菊でも、お店でちゃんと葉を湯がいてきれいに盛り付けられていると「あ、食べろってことだな」と、何となくサインを出されているような気がします。一方、大衆居酒屋なんかで菊が生のまま添えられていると、少し不安になってしまうのですよ。「とりあえずでやってない?」ってな具合に。「衛生もとりあえずなのかも」なんて穿った想像もしてしまいます。

 

大根のツマだって、あれもあしらい(正しくはかいしき=料理の下に敷く飾り)ですが、やはりそれをすべて平らげる人はあまり多くないのではないでしょうか。事実、魚の体液を受け止めて、余計な水分を除去するために使われることが多い大根ツマ。板前からしても「それは食べなくていいよ」ってのが本音でしょう。しかし、人によってはそんな思惑なんて知る由もありませんから、それだったら最初から皿に乗っけない方が優しいんじゃないの?と思ってしまう自分がおるわけです。そもそも大根さんが可哀想じゃないですか。

 

かいしきと言えば、塩笹なんかがメジャーですかね。笹の葉っぱ。食べられませんよ当然。抗菌効果があるもんですから、昔からおむすびや弁当を包むのに使われてきたという歴史がありますが、皿の上に笹を敷いて、そこに料理を乗っける。「食べられないものが皿の上にある」というのを嫌がる人もいます。

 

インスタ映えってのは、インスタグラムに特化した表現ではありますが、和食文化には常に寄り添っていた概念です。フランス料理にも多大な影響を与えた、日本の素晴らしい伝統技術だと思います。しかしあしらいも過ぎると下品になりますし、食べる人を困惑させる場合があります。僕も以前インスタで、パスタに寄り添うドライローズマリー(枝つき)の写真を投稿しました。お好みでローズマリーを揉んで食べてくださいってことですが、そもそもそれは提供する人間のエゴではないかと、投稿してすぐに反省したものです。

 

ローズマリーを知らない人だっているはずですから。ハーブの使い方やそれぞれの個性を熟知している人なんて、料理人と調香師とティーマニアとガーデニングが好きな主婦くらいのもんでしょう。料理をする人間からすれば、そんなもんはある程度知っていて当然です。この辺の意識の乖離が“エゴ”になるわけです。「え、知らないの?そりゃアンタが悪いよ」なんて、そんな傲慢な人間の料理を誰が食べたいでしょうか。

 

パスタにローズマリーが添えられてあっても、「え、これどうすんの?」と困惑する人がいるかもしれません。僕も多分そうでしょうね。外食でそんな料理を目の当たりにしたなら「この葉っぱ、いらねぇだろ」と思うでしょう。ひいてはその店にはもう行かないはずです。こりゃインスタ映えの弊害だな、と痛感ですよ。よくよく思い起こせば、普段ならあんなあしらい方なんてしないんですから。盛り付け(インスタ映え)を意識した結果だと思います。本末転倒。これはすぐにでも正さなければなりませんね。

 

木の芽なんかも、外国人であれば戸惑うでしょう。紫陽花(あじさい)が日本料理のあしらいに使われることも少なくありません。これも個体によって毒を持つものがありますから、万全を期すなら皿の上に乗せるべきではないと思うのです。

 

この“プロ(要するに専門的な知識と経験を持つ人)にしか分からない”類のものには、シロウトは安易に手を出しちゃいけませんよね。「失敗は成功の母」というのは金言だと思いますが、料理においては「失敗したら終わり」なわけですから。そもそも失敗が許されるものではないんです。

 

フグなんかであればさばくのに免許がいるのはシロウトでも大体は知っていますけども、まさか日本料理のあしらいに多用されるものに毒があるなんて誰が想像しましょうか。

 

事実、レシピサイトなんかでは紫陽花を使ったレシピがたくさん掲載されています。紫陽花の中毒での死亡例はないようですが、近年においても事故は実際にありますから(それこそ銀杏中毒のように)、料理にこだわるなら相応の知識も必要でしょう。

 

ここで心配になってくるのが、やはり最近の「“にわか”料理系男子」が増えてきたことです。

 

「料理ができる男はかっこいい」という動機でこだわり始める方は、少し危険なのではないかと思います。

 

「大根のおろし汁は体にいい」といってそれをふんだんに使うと、簡単に腹を壊す人もいるのですから。

 

ふすまも然り。

 

体にいいはずなのに、実際に腹を下す人がいる。たとえそれが健康に良い前兆であったとしても、誰が金を払って腹を下したいか。

 

僕はあくまで自分はトーシロと思って料理と向き合っていますが、プロ意識は持っています。人に料理を提供する機会が少なくありませんし、代金をいただいて不特定多数に料理を振る舞う機会も増えるでしょうから。

 

「趣味で料理をしている」と言い切って、思うままに調理を楽しむのとは少し違います。これがね、クリエイションであれば「プロ=代金をいただいて仕事をすること」と割り切れるんですが、料理はまた少し違うのですよ。責任が大きいのです。ただうまい料理を作れればそれでいいということではありません。料理を商品として提供するからには、喜んでいただけるのはもちろんのこと、それよりも何よりも「絶対に安全である」というのが前提です。ですから、背伸びなんてできないのです。「自惚れられない」ということ。現実と向き合う必要がある。食材の現実。食べ物の歴史という現実。自分の無知さや未熟さという現実。

 

インスタ映えが持て囃される昨今、「見栄えする」という上っ面だけで料理にこだわることの危険性に、どれだけの人が気付いているのか。心配なところです。

 

僕もたまには寿司を握りますし、魚もさばきます。その時に一番気にするのが、やっぱり「見栄え」よりも鮮度ですとか、寄生虫なんかですよ。買い付けが市場だろうがスーパーだろうが、なかなか神経を使います。それぞれ気のつかい方は違いますけども。

 

一方で、料理をファッション感覚で始める人も多い。

 

たまぁに人に料理を教える機会もあるのですが、どうもしっくりきません。料理教室の先生なんかは特に痛感していらっしゃるんじゃないでしょうか。「ファッション感覚の料理」にあこがれて、自分で勉強しようともしない人の多さに辟易しているはずです。「料理ってそういうことじゃないんだけどなあ……」なんて思いながら、それでも仕事と割り切って取り急ぎ教えるべきことを生徒に教えている先生は多いでしょう。同情いたしますよ。

 

そりゃあね、まだ見ぬ将来の旦那なり妻なりを想定して、「ご縁のためにとりあえず調理技術を会得したい」──ってんじゃ、料理に心で寄り添えるはずがありません。僕はもう料理を始めてからずいぶんと時間が経ちますけど、料理の真髄を知ったのはそう遠い昔のことではないのですよ実は。幼少から器具のメンテナンスや調理を教えてくれる人なんかがいましたが、それってのはあくまで二の次。お陰で凝った料理なんてもんを昔から作っていましたし、積極的に人に食べてもらって評価してもらってもいました。ただ、順序が違ったかなと思います。

 

僕が料理らしい料理をしたのは、妻が妊娠した時なんですよ。塩分は控えなければならないし、カロリーも気にしなきゃいけない。特に出産前は、調味料の配分にシビアになりました。入院先じゃ味気ない食いもんばかり出される。入院したことがある方なら分かるでしょうけど、病院食ってのは気が滅入るでしょ。だからといって、塩を多用するわけにもいかない。顆粒の出汁やブイヨンなんてもってのほか(というか、そもそもそんなもんを使う概念がない)。そんな時、僕は妻の健康に必要なもの、不必要なものをクリアした「美味しいもの」を作り始めました。そして、近所の花屋さんで一輪の花を買って、毎日惣菜を届けたのです。

 

この時に作ったもんなんてのは、僕がイメージしていた“ご馳走”とは程遠いものでした。素材にこだわって調理にこだわって火加減と向き合ってきた僕からすれば、とても考えられない惣菜ばかりです。塩を使わない海苔の佃煮とかね。地味ですわ。これをどうやって美味しく食べてもらえるか、相当四苦八苦したもんですよ。当然調理したものは保存容器なんかに入れて持っていくわけですから、あしらいなんてありません。器なんかで格好つけられるような状況ではなかったのです。

 

そん時のあしらいはきっと、毎日一輪ずつ持っていった花ですかね。退院する頃にはなかなか見事な花束になってましたよ。惣菜も花も、妻はたいそう喜んでくれました。この時僕は「料理で人を思いやり気づかう」という体験を通して、「料理の真髄」を自分なりに定義したのだと思います。

 

退院後も一年間は、それが続きましたかね。やはり塩分は控えなきゃならないし、脂肪分も控えなきゃならない。しかし、出産を終えて体調が戻ってくれば、それなりに豪勢な料理も食べたくなる。カロリーの高い食べ物への渇望も出てくるわけです。そうした中で、僕は一年間、妻の健康に配慮しながら最高に喜んでもらえる料理を毎日作り続けました。精神的にも技術的にもいい修行だったと思います。

 

寿司はヘルシーなんて言われていますけども、砂糖がわんさか入っています。ヘルシーなわけがないんです。ですから「砂糖をできるだけ使わないで、どんだけうまいシャリが炊けるか」なんて発想も出てきます。

 

料理は優しさですよ。

 

商売はまた別でしょうけども、それでもお客様の健康に悪いと分かっているものを、サービスとして平気でお出しするなんてのは僕にはできません。まっとうな料理人であればなおさらだと思います。だからと言って「パスタに動物性の脂肪を使わない」なんてのも偏屈ってもんで、ここら辺はバランス感覚だと思います。

 

いずれにせよ、料理なんて「モテそう」で実践してできるもんではありません。

 

ふと思えば、これはあらゆることに通じるもんだと気付きます。

 

“インスタ映え”では、本当の料理などできないと僕は思うのですよ。

 

やはり人を思えばこそ。

 

そのためには実践よりもまず、勉強だと思います。