イギリスの記事より | siennaのブログ 〜羽生君応援ブログ〜

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羽生結弦選手の現役時代をリアルタイムで体験できる幸運に心から感謝しつつ、彼のスケートのここが好きあそこが好きと書き連ね、ついでにフィギュアにも詳しくなろうと頑張る欧州住まいのブログ主です。

イギリスの高級紙、ガーディアン紙のサイトに羽生くんのNHK杯に関する記事が出ました。
いやあ、なんというか、あらためてすごいですね、グローバルな反響…

著者のウィリアムズ氏は、ガーディアン紙の元スポーツ部長。インディペンデント紙やザ・タイムス、タイムアウトやメロディーメーカー等のスポーツ報道や編集に携わってきた経歴の持ち主です。

ちょっと毛色の変わった記事です。
羽生くんへの言及は序盤と最終章。
その他、大部分はイギリスの誇る伝説的スケーター、ジョン・カリーのストーリーです。
羽生くんのSEIMEIを、自国の英雄の演技と同等だと認めてくれているのですね。
というか、あのカリーさんが再来したようで嬉しくてたまらん、という著者の感動を感じる記事でした。

カリーがゲイであったこと、それに苦しんでいたこと、最後はエイズにより44才の若さで亡くなったことなど、知らないことばかりで翻訳中は驚きの連続。

動画を見ると、スピードや難易度はもちろん比べ物になりませんが、軽やかなスケーティングのスタイルと優美さには確かに共通点があります。

記事の最後では、演技と偉業の達成に共通点を持ちながらも、二人は違う時代・違う環境に生きているんだという、長年スポーツジャーナリズムに関わってきた著者の感慨が伺えました。

最後に羽生くんのルックスがさりげなくボーイグループに例えられているにもびっくりですが、ウィリアムズさんがメロディメーカーに勤めていたことを知って、なるほどーと思いました。
ananでもモデル顔負けの魅力を振りまく羽生くんですが、イギリス人男性の目にも似たように映るのかあーw

本文はこちらです。

Yuzuru Hanyu offers timely reminder of John Curry’s grace and greatness

ジョン・カリーの優美さと偉大さをタイムリーに想起させた羽生結弦

週末に日本の羽生結弦が見せた記録的演技は、今は亡き英国人、カリーの革新的演技を思わせた。観客の反応も同じだ。ちょうど40年前のこの時期、カリーは歴史的3冠を達成しようとしていた。

在りし日のジョン・カリーを偲ぶなら、先週末、名古屋(原文ママ・笑)における羽生結弦の演技がふさわしい。毎年行われるNHK杯で、この20才の日本人フィギュアスケーターは、フリーで200点、そして総合で300点の壁を超えた史上初の男子選手となった。しかし、羽生が繰り広げたフリープログラムは、単なる点数にとどまらず、カリー同様、このスポーツの持ちうるあらゆる芸術的ポテンシャルを満足させるものだった。

3つの4回転と7つの3回転を含んだフリーの演技。彼の動きは、敏捷で流れがあり、かつ正確。この時、観客に与えた効果は、優美さと佇まい、そして極上のラインを身上としたカリーの革新的演技に匹敵するものだ。この二人は、アスリートとして最上級ともいえる技術力を身につけるため、膨大な時間をかけてきた。しかし、彼らはハードな練習の跡をその演技の美しさでエレガントに覆い隠すことができる。

ちょうど40年前のこの季節、当時26才だったカリーは、3冠を成就する一歩手前にいた。この偉業は、のちに彼の競技キャリアを定義することになる。バーミンガム生まれの彼は、たった50日間のうちに、ジュネーブ、インスブルック、そしてゲーテボリで、ユーロ、五輪、そしてワールドのタイトルを次々獲得したのだ。ところが、これらの勝利の真っ只中に、彼は全くの別件で世間を騒がせることになる。 ある通信社の記者の質問によって、彼のホモセクシュアリティが明らかとなったのだ。

カリーは7才の時、マルゴ・フォンテーンをテレビで見て以来バレエダンサーになることを決意した。しかし、バレエは男の子にふさわしくないと考えた父親の許しを得ることができなかった。のちに発見したスケートへの興味に対しては、両親も首を縦に振った。バレエの詩的ビジュアルを氷上に移すことに長けた彼は、英国民から愛されるようになる。1976年2月11日、インスブルック五輪における究極の演技を見届けるため、2千万人に及ぶ人々がテレビを見た。

読者でその放送を見た人ならば、シンプルなモノクロのコスチューム、堂々たる姿勢、ほとんど挑戦的ともいえるプログラムの正統派エレガンスといった諸々を思い出すだろう。冒頭の3回転ジャンプからクライマックスのダブルアクセルまで、テレビの解説者も、今まさに金メダルを手中に収めようとしている男に夢中になっていた。「これまでこのようなことをするスケーターは見たことがない」ある米人専門家は息を飲んだ。「なんというアーティストだ」と彼の同僚はため息をついた。

カリーの歴史的3冠への準備には、一風変わった行動も含まれていた。ESTという賛否両論のある自己啓発プログラムへの参加である。ワーナー・アーハードという、車のセールスマンをしていた人物が開発したこのプログラムは、ニューヨークに滞在中のカリーが参加を決めた、ほんの4年前に始動したばかりだった。L・ロン・ハバードのサイエントロジーとアーサー・ヤノフの原初療法の中間的メソッドともいえる。栄光や芸術的充足感と同時に不安と悩みに満ちた青年の精神状態を落ち着かせるのに役立った。

カリーの父ジョゼフは、簿記用機械を作る工場の所有者だった。ポーランドで3年を捕虜として過ごした彼は、その後アルコール中毒に罹る。繊細な外見を持った息子の「めめしさ」を「治療」しようという父親の試みは、初期のスケートコーチによって引き継がれた。ロンドンのホテルの一室で父親の死体が発見された時、カリーは16才だった。死因は睡眠薬による自殺だった。

「嬉しいよ」。ライターのビル・ジョーンズによると、ジョンは親しい友人に対してこう言ったらしい。「僕らは父から解放されたんだからね」。昨年出版された優れたカリー伝記「Alone」によると、彼の以降のスケーターとしての活躍は、「壮大な終わりなき復讐であり、もう演技を見ることのない父親に向け構築された神秘的な美」だった。

1974年までに、カリーはほとんどの時間をコロラド州デンバーのリンクか、ニューヨークで過ごすようになっていた。しかし、英国にとって、やっと2つめとなる冬季五輪の金メダルを獲得した彼は、故郷の英雄になった。

彼のホモセクシュアリティを話題にしたのは、彼が新たに獲得したファンたちよりも、メディアだった。デイリーメール紙の著名スポーツライター、イアン・ウルドリッジは、その発端となったインスブルックの記者会見に出席していたが、「カリーはたった19時間のうちに二つの驚くべき演技を見せた。無情な新聞記者たちの始めた下司な試合を受けて立ち、それに勝ったのだ」と記事に書いた。カリーはその数ヶ月後、F1世界選手権を制したジェームズ・ハントといった明らかなマッチョを下してBBCのスポーツパーソナリティ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

3冠獲得後、カリーはプロに転向する。興行師のラリー・パーンズがカリーのマネージメントを担当することになった。多くの英国のロックンローラーを牛耳ってきた人物である。彼らはロンドンのケンブリッジ劇場に「ジョン・カリー・スケーティング劇場」 をオープンしたものの、ロイヤルバレエ団のケネス・マクミランによる振り付けにもかかわらず、成功を収めることはできなかった。ある時、カリーはスポーツ記者たちのクリスマスパーティの席上で贈られる賞を受け取るために出席したが、そこであるコメディアンから「木の上に降り立った妖精」と紹介されてしまう。それ以来、彼の英国に対する態度は苦々しさを増していった。

ニューヨーク行きは彼の逃避行だった。「米国人は個人を尊重してくれる」。 ニューヨークはアイスショーも格段に多く、観客席には著名人も混じっていた。エイズが死の影を落とす前の最後の日々を、夏のファイヤーアイランド(訳注:ロングアイランド手前にある、ゲイのコミュニティーのはしりとして有名になった島)や、ニューヨークの人気ゲイ・ディスコなどで過ごした。

1981年には、カリー自身の衰弱が見て取れるようになっていた。英国に戻った彼は、ノッティンガム・プレイハウスで「真夏の夜の夢」 の妖精パックを、リージェントパーク劇場では同じく「真夏の夜の夢」 のライサンダーを演じる。コロラドを本拠とする新カンパニーは、彼のキャリアの頂点ともいえるシンフォニー・オン・アイスを演目に掲げて、アルバートホールやメトロポリタン歌劇場に出演した。

しかし、彼の傑作、ストラビンスキーの「火の鳥」 の氷上バレエは、カンパニーの増え続ける借金のために失われることになってしまう。1991年、非常に衰弱した状態でウォリックシャーの母親の家に戻ったカリーは、その3年後、44才で他界した。

ボーイグループのようなルックスに恵まれた羽生は、紫で縁取られたビジューの輝くチュニックに身を包み、歴史に残るフリープログラムに散りばめられたジャンプの数々を、カエデの種が空中を舞うようにヒラヒラと軽く決めて行く。翌日、彼に男らしさとアスリート性について何かをほのめかすような質問をする記者は誰もいない。暗さを増す世界で、ここには少なくとも一条の光があった。