いろんなことを、自分の思いどおりにする…
計画どおり、構想どおり、きちんと仕上げる。
約束を果たす…。仕事をやり遂げる…。
これらのことが、支配欲求であり、達成によって快感が得られ、さらなる高みを求める…
しかし…
これらは、自分の支配領域でのみ、可能なことですし、
その領域で手に余る場合は、外部に向かって援助を請わねばなりません。
日常業務のほとんどはルーチンですから、十分支配が可能ですが、
少し課題のレベルが上がれば、もうすべてが一からつくりあげねばならないものとなります。
真に重要な仕事、創造的な仕事ほど、思いどおりになんぞなりませんし、
計画通り、構想通りにはなりません。
人間は、もともと無力です。
偉大なことに挑戦する人ほど、自分の無力を思い知り、打ちひしがれることになります。
逆に低俗な者ほど、挑戦することを「できっこない」「お前にはムリ」などと嘲笑するのです。
また、そういう低俗な者は、弱い者いじめや簡単なことしかしないので、妙な”万能感”を持っています。
ですから、無力の自覚のある人こそが偉大なのです。
ひとりひとりが無力であるからこそ、多種多様な人間が用意されている…
よって、人々が助け合うこと、赦しあうこと、協力しあうことが重要なのです…ところが…
機械文明絶頂の今日、人々に課せられているのは、”協力”ではなく、”競争”です。
人間は機械の部品でしかない。
人間は組織の一部でしかない。
人々が、合意し、協力し合うのではなく、力よって屈服させ、支配することで”協力”させる…
人が人に協力する場合は、目的が同じであるとか、利益で折り合いがつくとかです。
そういうのがまったくなく、問答無用で「絶対服従」を強いられる…機械文明に顕著なことです。
どんな目的、どんな命令が与えられようとも、速やかに「組織」が対応できるようにするためです…
だが、そうなれば、そこの人間は目的意識をもたなくなりますし、命令に従順で自分の考えももたなくなります。「組織」は人間を家畜にするシステムでもあるわけです。
人を支配する…それ自体が目的であり…
自分が、相手に対して”上位”であり、相手の”支配者”であることを求める…
「何でも思い通りになる」「思い通りにできる人々がいる」
しかし、その「思いどおり」の「思い」の中身は空疎で独善的…「ない」も同然…
「支配欲求」も、このようになったのでは、ただの暴力への欲求でしかなくなります…
こうした「倒錯」が生じている世の中では、価値観や常識も「倒錯」していきます…
価値によって、値段がつくものなのに、値段で価値が逆に決まる世の中…
事実が報じられ、事実に基づいて審判されねばならないのに、報道や判決が「事実」になる…
価値のないものに値段がついて「価値あるもの」として扱われ…
ウソやでっち上げを「事実」と信じて、怒ったり泣いたりしている大衆…
「国」のサイズが大きくなるほど、力による統治は必要になってくるとはいえ…
こうした歪んだ「支配欲求」に支配された倒錯社会の「生命」や「存在意義」は何なのでしょう?
もともとは達成するための「目的」があったはずなのに、いつのまにか、そんなものはどうでもよくなっています。
とにかく、自分が「右」と言えば、相手が右を向くのかどうか…
とにかく、自分と相手と、どっちが「上」か「下」か…
思いどおりにしようという「支配欲求」は旺盛なのに、「思い」の中身が「ない」人たち…
あるのは、自分が中心で、自分が主人公で、皆の注目と称賛を浴びているという”夢”だけ…
どんなお芝居で、何を伝えるのかというのは、別にどうでもいい…
それを尋ねても、答えが返ってこない…
どうも世の中のほとんどの人々は、支配されたがり、家畜になりたがる人ばかりのように見えます…
つまり、家畜であるということは「降伏」を意味し、戦闘の終了を求めているわけです。
競争原理により、人々は戦闘に疲れ、傷つき、降伏し、家畜になることで終わらせるのです…が…
ゲームは、それで終わったわけではありません。そのまま家畜ゲームに移行するのです…
家畜の求めるのは…平和であり、”やさしさ”である…戦闘を好まない…
一見よいことのようですが、これほど人生を投げ捨て、人間の尊厳を投げ捨てている行為もありません。