現在、新田次郎さんの「武田勝頼」を読んでいます。読もうと思ったきっかけは、今年のNHK大河ドラマの「真田丸」です。こちらは真田昌幸をはじめとする真田一族が戦国時代の苦難を乗り越えて行く姿を描くドラマですが、それが武田家の滅亡から始まります。甲斐の武田家と言えば、武田信玄が一代で築いた戦国最強とも呼ばれる軍団で、にもかかわらず信玄が病死後は勝頼の代で呆気なく滅んでしまいました。信玄や風林火山の旗印などはよく知っていたのですが、勝頼のこととなると、考えてみるとあまり知りません。特になぜあれほどまでに易々と滅ぼされてしまったのか。調べてみると、新田さんが「武田信玄」に続いて「武田勝頼」も小説として書いていましたので、それでは読んでみようと思った次第です。

今回は、第三部「空」の「笠原新六郎」から「人質御坊丸の事」までです。


 


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「笠原新六郎」

天正九年(一五八一年)九月に、小田原の北条氏のところへ、新府城は今年中に完成の見込みであるという情報が甲斐から届きました。北条氏政は家老の松田憲秀を呼んで、いよいよ笠原新六郎を武田に叛らせる策を実行に移します。笠原新六郎は、三島の心経寺住職音恵と会って、北条に愛想が尽きたので戸倉城を土産に武田につきたいと話しました。音恵は、かねてから北条氏と武田氏の間に立って伝達の役目を果たしていました。

音恵は驚きましたが、武田側の部将を通じて古府中の武田勝頼まで伝えました。これは北条氏政の罠ではないかという意見に対し、内藤勝資は戦中の和の策であるとして、ここは勝頼自身が伊豆の仕置について出向するのがよいと言いました。北条氏の方で戦中の和として手を差し伸ばして来たならば、その手を力強く握り返してやるべきだと考えたのでした。

十月半ばに勝頼率いる二千は沼津城へ向かいました。もし穴山梅雪が家康と内通していれば、徳川勢を呼び入れ、袋の鼠にすることも不可能ではありせんでした。勝頼はわざとその隙を与えて梅雪の心を試そうとしたのでした。

梅雪からは当然のごとく、早馬を以て浜松城の徳川家康に勝頼の行動予定が知らされました。家康は諸将を集めて緊急軍議を開きました。本多忠勝は、直ちに合戦に及ぶべきだと力説します。酒井忠次も、忠勝の言はまことに的を得たものと言って指示しました。対して石川数正は、これはおそらく北条氏政と馴れ合いのことであり、そうすると北条氏は徳川の同盟国でないということであり、まだまだ駿河は武田の領内であるので迂闊な行動はよくないと言いました。すると酒井忠次は数正を卑怯者呼ばわりしました。

大久保忠世は、江尻の穴山梅雪に出兵を促し、梅雪が旗色をはっきりすれば武田の諸将は悉く力を失って自滅するでしょう、と言います。それは他の部将も一人残らず考えていたことでした。信長に気兼ねせずに徳川の判断で事を進めたらどうかという考え方です。それに対し家康は、作戦上緊急であり、有利であっても信長の指図は必要であり、出過ぎた行動は許されないと答えました。

その日の軍議の結論は、家康が酒井忠次と石川数正両将の間を取り繕っただけのものとなりました。徳川家で酒井忠次と同格の家来は石川数正でしたが、数正は酒井忠次の振る舞いを侵害に思っていました。家康もこの二人の重臣の心の動きをよく知っていましたが、まだまだ家臣団に気兼ねをしながら戦いをしなければなりませんでした。

江尻の穴山梅雪は、家康から書状が来るのを待っていました。書状があれば江尻城で叛旗を掲げよという命令であるはずです。穴山梅雪は、武田家の跡は穴山家に取らせるという内諾を信長から貰ってはいましたが、自らの手で勝頼を討つことはできませんでした。梅雪は、織田、徳川の手によって武田家が料理される場合のことのみ考えていたのでした。

 

「伊豆仕置と穴山金山」

武田勝頼は二千の旗本を率いて沼津城に入りました。勝頼到着の報は戸倉城主の笠原新六郎と江尻城の穴山梅雪に出されました。笠原新六郎は直ちに沼津城に出頭しましたが、穴山梅雪がなかなか姿を見せず、勝頼は新六郎との伊豆の仕置について打合せを始めることができませんでした。やっと梅雪が沼津城に到着し、やっと始まった伊豆の仕置はその後、順調に進みました。

勝頼は沼津城に三日間滞在して、その後帰途につくことになっていました。その三日目の夜に梅雪から話をしたいとの要請がありました。その会談で梅雪は、勝頼が自分を疑っているのではないかと言い出します。勝頼が、梅雪は徳川と内通していると疑っているのではないか、そうであれば武士として誠に恥ずかしいことであり、心外であるので赤心を見せたいと言い出しました。そして、穴山三金山を勝頼に譲るとともにそのことを誓書にしたためてお渡ししたいと提案します。

勝頼にとって穴山三金山は咽喉から手が出るほど欲しいものでした。度重なる戦争と築城のため、金は使い果たし、国の経済の破綻を目前に控えている時でもありました。この時、勝頼は完全に梅雪に掛けていた疑いを解いてしまいました。

さらに梅雪は、跡部勝資を江尻城へ連れて行って、身の潔白を明かしたいと言って止みませんでした。勝頼は、そうすればよいと賛成します。一方勝資は新たに疑念を抱き、もしかすると江尻城へ閉じ込められて再び古府中へ帰れないかも知れないと怖れました。

しかし、勝資が江尻城に滞在中に、梅雪は彼を連れて城内を隈なく案内しました。梅雪は金蔵まで見せました。勝資は明け透けに見せてくれる梅雪に好感を持つようになりました。梅雪は勝資が帰館するという日に、戦時中ゆえと断ってささやかな宴会を催しただけでした。跡部勝資より穴山梅雪の方が悪知恵において勝っていたのでした。

 

「人質御坊丸の事」

御坊丸は織田信長の六男で、幼くして岩村城主、遠山景任の養子となり、景任の養女ゆうの方が信長の叔母だという関係もあって、この城に送られていました。その後、岩村城が武田の部将秋山信友によって奪われた際に武田の人質となったのでした。

その御坊丸のことが武田家で問題になったのは、穴山梅雪が、このような時勢になったことを受けて人質として置かれている御坊丸について一考を促すように、との話が出たからでした。勝頼は、御坊丸を預かっている従弟の武田信豊の意見を聞いて、信豊の養子にしたいと織田側へ申し入れることにしました。あまり期待はできませんが、少なくともそうすれば相手の出方が分かり、それによって今後の動向が予測できます。また、織田家と武田家の間を使者が往復することで、両家の緊張を緩和してくれます。

織田信長は意気軒昂でした。この年、天正九年(一五八一年)には高天神城が落ちた後、中国では羽柴秀吉によって鳥取城が落ち、信長に頑強に抵抗するのは毛利一族だけとなりました。信長の居城安土城へは全国の諸豪が贈り物を堅持、ご機嫌を取っていました。そこに甲斐からの使者が到着しました。使者の書状は、御坊丸を武田信豊の養子に欲しいのでお許し願いたいという内容でした。

信長は、武田の滅亡はもはや疑うべくもない事実となって表れていると考えました。人質は生きた道具で、そう使ってもよいものを、その人質を突然養子に欲しいとは、武田の内部に戦意なしと読んだのでした。信長は、御坊丸を養子に迎えたいという話はこちらにも都合があるので断るという内容の書状を書きました。そして、わざと自署名よりいくらか下げて、武田勝頼の宛名を書きました。この書状を読んで勝頼が怒り、御坊丸を斬るようなことがあれば、武田に戦意があるとして甲斐侵攻は毛利との戦争が終わった後にしようと思っていました。

勝頼は届いた信長の書状を読んで怒り、御坊丸を斬ると言いましたが重臣たちはこれに反対しました。結局、御坊丸は信長の使者に下げ渡すことでけりがついたのでした。

 

 

戦が始まる前に、書状による駆け引きが行われており、それに武田勝頼は既に織田信長に敗れていたのですね。人質の扱いに対する考えが、もう敗者のそれになってしまっており、また、そのこと自体に気が付いていないという状態は惨めなものです。かつての最強の武士軍団であった武田家と言えども、滅びる前の姿はこのようになってしまうものなのでしょうか。




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