こちら休日社労士Web事務所

こんにちは、勤務社会保険労務士の しろう です。このたび、Web上で事務所を開設しました。
労働保険、社会保険の動向に注目し、社労士会の会報誌の記事紹介、関連法令の改正情報、その他興味ある情報を、勤務社労士の視点から発信しています。

★★ 勤務社労士として、労働保険、社会保険に興味をもたれた方々に、役に立つ知識や情報を発信します ★★

 

これまで次のテーマで連載をしています。

 

★ 雇用保険(1)~(9)

転職・独立に向けて会社を辞めたり、残念ながら自らの意思に反して離職せざるを得ない方は、雇用保険の活用方法についてよくご検討ください。

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★ 事務指定講習(1)~(29)

(平成20年のものですが)の再研究を連載しました。社労士試験に合格された方のお役に立てれば幸いです。

 左サイドバーのテーマで事務指定講習」を選択ください。

 

★ 60歳の選択(1)~(21)

定年後の年金に関する知識をまとめました。60歳前で今後退職を向かえる方は是非一読ください。

 左サイドバーのテーマで「60歳の選択」を選択ください。

 

★ 医療保険のひみつ(1)~(28)

定年退職を迎えようとしている高年齢者の方の医療保険選択の考え方について解説しています。「60歳の選択」と併せてご覧下さい。

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★ 年金相談の事例(1)~(39)

年金相談を想定して、よくある相談内容をまとめることで、難しい年金を解説してみました。

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↓それではお役に立てることを願っております↓


 

NEW !
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現在、新田次郎さんの「武田勝頼」を読んでいます。読もうと思ったきっかけは、今年のNHK大河ドラマの「真田丸」です。こちらは真田昌幸をはじめとする真田一族が戦国時代の苦難を乗り越えて行く姿を描くドラマですが、それが武田家の滅亡から始まります。甲斐の武田家と言えば、武田信玄が一代で築いた戦国最強とも呼ばれる軍団で、にもかかわらず信玄が病死後は勝頼の代で呆気なく滅んでしまいました。信玄や風林火山の旗印などはよく知っていたのですが、勝頼のこととなると、考えてみるとあまり知りません。特になぜあれほどまでに易々と滅ぼされてしまったのか。調べてみると、新田さんが「武田信玄」に続いて「武田勝頼」も小説として書いていましたので、それでは読んでみようと思った次第です。

今回からは、第三部の「空」に入り、「岡崎三郎信康」から「信康自刃」までです。

 




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「岡崎三郎信康」

天正七年、上杉景虎が自刃した頃、武田勝頼は大軍を率いて遠州国安(静岡県掛川市国安)に出陣していました。徳川軍は袋井に本陣を置き、前備えを馬伏塚(静岡県袋井市浅名)に置いて、武田軍の動きを見守っていました。

袋井で軍議が開かれ、その席上、徳川家康の嫡男、岡崎三郎信康は自ら希望して馬伏塚方面に出動して物見をしたいと申し出ました。物見は大将のやることではない、と家康は止めますが、信康は、名ばかりの大将でありたくはない、と言い、退き下がりません。宿老の酒井忠次は、戦は遊びごとではありません、と反対し、大久保忠世も同じ意見を述べました。信康は、そちたちは自分を飾り物にして、徳川の実権を重臣が握ろうとしているのだ、と言い放ちます。さらに、徳川軍は本気で武田軍と戦う気がなく、それで何時までも織田信長にばかにされるのだ、とまで言います。結局、本多忠勝が同陣するということで、物見に出ることになりました。

しかし、信康は忠勝が止めても聞こうとせず、強引な男でした。翌朝未明、信康、忠勝の部隊は寺部へ向かって繰り出しましたが、寺部の近くまで来ると、先に物見として出して置いた数騎が戻って来て、寺部には敵の姿がありません、と報告しました。本多忠勝は、そんな筈はない、これは敵の罠だ、まさしく敵の陥穽だと叫びます。しかし信康は、敵が居なくなったからと言って、われ等が敵の陥穽に落ちたという証拠はない、として強引に馬を進めようとしましたが、その時物見が帰って来て、敵の大軍が浜野のあたりを海岸沿いに西に向かって攻めて来る、と報告しました。それを聞いて信康は、自分たちが敵の陥穽にはまり込んだことを知りました。

勝頼の考えでは、信康、忠勝の部隊は必ず馬伏塚に引き返すと思っていました。けれども、信康、忠勝の部隊は馬伏塚には帰らずに北に逃げようとしました。そのため、内藤昌月の率いる上州軍と信康、忠勝の三河軍とが血みどろの戦いをすることになりました。内藤昌月は、名将と言われた内藤昌豊の子でした。

信康は何とか袋井の家康の本陣に戻りますが、信康の兜の鍬形は片方が落ち、鎧には返り血が着いていました。緊急軍議が開かれ、勝頼が決戦を望むのならば徳川家の名誉にかけて一戦試みるか、と家康は考えますが、酒井忠次は信長の、勝頼と戦うな、放って置いても武田は自滅する、という言葉を出して反対します。信長の名前が出た以上、他の部将は黙ります。

そこに信康は、忠次の名を呼び、お前は徳川家康の家臣なのか、それとも織田信長の家臣なのか、と尋ねます。忠次は、苦り切った顔で信康を睨めつけ、言いたい放題したい放題していると、この次は兜の鍬形だけではすまぬようなことが起こりますぞ、と言うと席を蹴立てるようにして外へ出て行きました。

 

「徳姫様」

信康はずっと無口でした浜松城には立ち寄らず、真っ直ぐに居城の岡崎城に向かいました。信康の心の中は反省で一杯で、岡崎城に着いたら自分の傅役である平岩親吉と相談して、酒井忠次に詫びを入れよう、と考えていました。しかし平岩親吉は、忠次に頭など下げる必要はない、と言います。親吉は傅役として、信康を強い武将に育て上げようとして来ましたが、そのしつけ方が時には狂暴と思われる性格にしてしまったようでした。酒井忠次は、この傾向を憂えていました。

家康は、築山御膳(家康の正室、信康の母)のところへ行き、生みの親としての意見を訊いてみようとしましたが、信康を叱る前に、父である家康が品行を改めることだ、と切り返されます。もともと家康は、今川義元の姪にあたる築山御膳に頭が上がりませんでした。築山御膳は、信長が自分の娘の徳姫を信康の正室に送り込んだことに、すこぶる機嫌が悪かったのでした。信康が元服した際も、信康と徳姫の接近を妨げました。十六歳の時、信康と徳姫は真の結婚式を挙げ、二人は他人がうらやむほどの仲の睦まじさでした。徳姫は妊娠しますが、二回とも女の子が生まれ、築山御膳は、女腹では世継ぎが望めない、と徳姫を疎ましく想います。また、徳姫が産後の床にある時に、信康に側室を進めます。信康は、側室の八重を愛し、徳姫のところには近寄らなくなりました。

酒井忠次は、信康と徳姫の間に溝ができたことを心配し、信康の矢場にまで参って仲直りを勧めます。しかし、信康は矢を忠次の胸元に向けて脅すのでした。忠次は信康がいつか必ず自分を殺すだろうと考え、忍ばせておいた腰元らに、徳姫と信康、築地御膳の身辺を見張るように命じました。誤解であってくれればいいが、信康が飽くまでも自分に対して誤解の目を向けるようなら、こちらも考えなければならぬ、と忠次は岡崎城を後にした時、そう考えていました。

 

「信康自刃」

天正七年五月五日、酒井忠次は浜松城で平岩親吉と会い、信康の袋井の陣のことを暗に訊きますが、親吉はそのことを察して、敢てとぼけて答えました。忠次は、袋井の陣の件について信康がいささかも反省の色がないのかと念を押します。親吉は、忠次こそ家臣として非礼を謝罪すべきだと言い、それを聞いた忠次は腹を決めました。忠次は、徳姫の腰元於富士に密書をしたため、徳姫から信長へ上訴するよう伝えます。

六月十日、家康の元に、岡崎の徳姫より上訴のことについて知りたいので酒井忠次を直ちに参上させるようにと急使がやって来ました。信長は、現れた忠次に徳姫からの上訴の書状を見せ、書かれた項目一つ一つについて真実かどうかを問います。信長は徳姫の上訴十二項目は忠次が書かせたものであることを、既に知っているようでした。

忠次は次々と信康のことを話しました。信康が、織田の属国に何時まで甘んじているのだと言ったことは事実か、信長はもう一度聞きます。しかし忠次は、神明に誓って間違いないと、はっきりと答えたのでした。信長は、止むを得ぬ、切腹を申し付けよ、築山御膳は斬れ、というと席を立ちました。

信康の傅役の平岩親吉は、信康に切腹の命令が出たと聞いて家康の前に仕出して、信康の命乞いをしましたが、家康は深く溜め息をつくしかありませんでした。親吉は忠次を恨み、忠次こそ除くべきであると思いましたが、親吉の力ではどうにもなりませんでした。

八月二十九日、家康は岡本平右衛門時仲と野中三五郎重政に築山御膳の首を討ち取って来るように命じました。築山御膳は既に覚悟して、死装束に着替え、薄化粧をして死の座につきました。

九月十五日になって、家康はいよいよ信康処断を決意し、検死役として服部半蔵と天方山城守通綱を派遣しました。信康は静かに念仏を唱え、腹十文字に切り割いて切腹しました。天方と服部は浜松城に帰ってその場の様子を報告しました。家康は終始無言でしたが、居並ぶ武将は皆涙を流します。この年、信康二十一歳、家康三十八歳でした。

 

 

新田さんは、徳川家の歴史の中で岡崎三郎信康の切腹ほど訳の分からぬものはないと書いています。江戸時代に下って書かれた俗書には、築山御膳は生得悪質嫉妬深き女、傲慢妬奸の女とか、また信康については英邁、勇猛、果断と書かれているものもあれば、粗暴、残忍、放恣と書かれたものもあるそうです。半ば創作されたもので、真相とはほど遠いものであろうということです。

 




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