浅田真央 悲願女王へのラストダンス | フィギュアスケート研究本

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ヨナとの「差」見つめ直す/真央連載1

[ 2014年1月31日9時3分 紙面から ]

<連載:浅田真央 悲願女王へのラストダンス第1回>

 苦難の4年間の先に歓喜が待つと信じる-。フィギュアスケートの浅田真央(23=中京大)は、ライバル金妍児(韓国)に敗れて銀メダルに終わった10年バンクーバー五輪での悔しさを糧に、ソチ五輪へと滑り続けてきた。基礎から学び直した地道な毎日、最愛の母との別れ、そして代名詞であるトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)の封印と復活-。来月7日に迫ったスポーツの祭典の開幕を前に、連載「悲願女王へのラストダンス」でその日々を追う。

 10年春先、愛知県豊田市内にある中京大の研究室、19歳の浅田は演技が映し出された画面をじっと見ていた。銀メダルに終わった2月のバンクーバー五輪のフリー演技、自分が滑る姿と金妍児が滑る姿。ソチ五輪までの新たな4年間を前に「敗北」を見つめ、永遠のライバルとの「差」を見つめていた。

 大学のゼミの指導教官で、スポーツ科学の権威である湯浅景元教授が制作したその映像がとらえていたのは、2人の重心の差だった。腕の重心、体全体の重心を分析。自分は体全体の重心がすごく動くのに、腕があまり使われていない。逆に金は体全体の重心は動かないで、腕が動く。

 「体全体を使うのは、実はエネルギーロスなんだよ。金選手は腕という軽いものを動かすだけだから、見た目は華麗だけど、小さな力を動かすだけ。だから体力的にきつい後半も踏ん張れる」。そう諭す教授に思い返すバンクーバーのフリー。トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)には2回成功したが、後半のジャンプでミスが出た…。誕生日も20日しか違わない隣国の同い年の金メダリストとの違い-。自分でも感じてきた課題が明確になった。「上下動をなくした動きが必要」。それまでの競技人生15年間で積み上げた技術を崩し、再び積み上げる。そう決めた。「基礎から学び直そう」と。

 それを教えてくれる新たなコーチを探した。バンクーバーまで師事したロシア人のタラソワ氏とはどうしても言語の壁があった。しっかり日本語で意思疎通できる人が良い。数人の候補が挙がったが、思い当たるのは1人しかいなかった。佐藤信夫コーチ。荒川静香、村主章枝、安藤美姫、中野友加里らを育てた名伯楽。そして、「世界一のスケート技術」と称される小塚崇彦も受け持つ。小さいころから交流があった仲間に、「ああなれたら」と自分の姿を重ねた。

 同コーチが首を縦に振ってくれたのは9月だった。上旬、「よろしくお願いします」と声を掛け合い、19歳の生徒と68歳の先生の二人三脚が始まった。スケートリンクに響く声は「ひざの屈伸運動を抑えて!」。中腰姿勢を保って、腰の上下動をなくす。重心が上にあれば足で氷を押す力は弱まる。逆に下にありすぎればブレーキになってしまう。100%の推進力を得るため、しっかりと1歩1歩、氷に力を伝えていく。それが金を始め、男子のチャンらの一流選手に共通するスケート技術。いわば「空気椅子状態」を維持するような筋肉への負荷に、今までにない疲労を感じながら、新たな道に進み出していた。

 指導開始から数日後の9月25日、20歳の誕生日を迎えた。報道陣が用意したシャンパンに少し口を付け、「クラッときそう」と苦笑いして、1つの決意表明をした。「社会人として、ちゃんと自覚を持ちたいと思います。練習でも、自分で決めたことをしっかりとやりたい」。(つづく)

 ◆浅田真央の10年バンクーバー五輪 女子シングル史上初めて「1競技会で3度の3回転半ジャンプ」に成功するギネス記録を達成。だが、同い年のライバルである金妍児がショートプログラム(SP)、フリーとも国際スケート連盟(ISU)歴代最高点となる合計228・56点をマーク。205・50点で銀メダルに終わり、終了後の会見では絞り出すように「悔しいです」と言い、涙が止まらなくなった。

 ◆10年バンクーバー五輪のフリー演技での浅田と金

 1位の金が150・06点で、2位の浅田は131・72点。その差は18・34点だが、ジャンプ、ステップ、スピンなどの各要素の合計である技術点では13・62点の差があった。技術点は各要素の基礎点に、各要素の出来栄え点を加えて算出される。金の基礎点は60・90点で出来栄え点は17・40点(計78・30点)、浅田は55・86点で8・82点(64・68点)だった。

 ジャンプで出来栄え点を稼ぐには、「開始から終了まで無駄な力が全く無い」、「高さおよび距離が十分」、「入りから出るまでの流れが十分」などの判定要素がある。金は上下動がない動きで流れるように跳ぶのに対し、浅田はジャンプの直前で前傾に踏み込みすぎて重心が下になる癖があった。重心の位置から見た2人の滑りの差は、後半の体力以外の面でも得点差に直結していた。

「47キロ」の呪縛で焦り/真央連載2

[ 2014年2月1日7時31分 紙面から ]

<連載:浅田真央 悲願女王へのラストダンス第2回>

 10年バンクーバー五輪以降、1つの数字が浅田真央の頭に呪縛のように覆っていた。

 「47」

 それは同大会時の自分の体重。そして何より、ギネス記録となった1大会で3度のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を決めた時のベスト体重-。ずっとそう思っていた。だから「そうじゃないとジャンプが跳べなくなる」。成功体験は、当時20歳の浅田に思わぬ形で足かせとなった。

 10年9月から師事を仰ぐことになった佐藤信夫コーチの元で、基礎からスケート技術を学ぶ日々。ジャンプの不安定さをなくすため、跳ぶ直前の上下動をなくす特訓を続けていた。練習方法でも、何分間かの短く激しい練習と短い休憩を交互に入れるインターバルトレーニングや、練習時間をそれまでの6時間以上から3時間半ほどに大幅に短くし、短時間で質を求めるスタイルに変えるなど、進化を目指した。

 だが、思うような結果は試合で出ない。佐藤コーチは「3年はかかる」とみていたが、愛弟子は知らず知らずのうちに、焦りを募らせた。跳べたジャンプが跳べない。10-11年シーズンの成績はNHK杯8位、フランス杯5位、全日本選手権2位、4大陸選手権2位、世界選手権6位-。

 その悩みの矛先は体重に向かった。「軽い方が跳べるはず。バンクーバーの時もそうだった…」。体つきが変わる20代前後なら微量な体重増は当然だが、それを跳べない理由に求めた。何より楽しみにする食事に「制限」が増える。白米を玄米に、お手製弁当は野菜中心に。ただ、それでも跳べない。余計に悩みは深くなった。

 体重減で確かに体は軽くなるが、逆に跳ぶために必要な筋肉も落ちる。100グラム違うだけでジャンプへの影響があるという選手もいるフィギュアの世界。調子が上がらない、だから余計に練習に打ち込む、それでもできない、それが焦りを募らせる。悪循環にはまった浅田に転機が訪れるのは、11年11月のある大きな決断を待たなければならなかった。【阿部健吾】(つづく)

3回転半と1度「お別れ」/真央連載3

[ 2014年2月2日9時31分 紙面から ]

 浅田真央と言えばトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)。現役ではただ1人しか試合での成功がなく、日本人の大会での成功は伊藤みどり、中野友加里を含めた3人しかいない。その武器とどう付き合うのか。10-11年からの2シーズン、10年バンクーバー五輪銀メダリストは大きな転機に直面した。

 決断のきっかけは「エースの決断」だった。11年11月のNHK杯。自分も数時間後にフリーを控え、ホテルでメークをしながら見やったテレビでの高橋大輔の演技に、心が動いた。フリーで4回転ジャンプを回避しながら、その他のジャンプ、ステップ、スピンの完成度で加点を稼ぎ、表彰台の一番上に立った。「こういう戦い方もあるんだな」。その時点では安定感を欠いていた大技を回避して優勝した日本男子のエースに自分を重ねた。そして、心は決まった。「3回転半を封印しよう」と。

 それまでは-。10年9月から学ぶ佐藤コーチの毎試合前の口癖は決まっていた。「ダブルアクセルでいったほうがいい」。体の上下動をなくす滑りを目指し、必然的にジャンプの入り方も変わった。慣れないタイミングの習得に、跳ぶ感覚も以前とは違う。その過渡期に、高難度の3回転半を跳ぶことは至難の業だ。

 ただ、初めて成功した小6の夏から、跳ぶことがモチベーションだった。同コーチは必ず「最後の判断は任せます」と尊重してくれたが、回避へと気持ちは向かない。だから、挑んだ。そして、失敗を重ねた。11年NHK杯のSPまで出場6大会11度の挑戦で成功は2回。転び、乱れ続けた。

 その折に、高橋の決断を見た。直後のNHK杯のフリー、さっそく行動にでる。氷上で体を回したのは2回半。問題なく成功し、順位を1つ上げて準優勝。そして、次戦のロシア杯ではこう言った。「アクセルなしにして、得点も出ましたし、十分これでも他の選手とも戦えるんだなと。なくてもできるんじゃないかなっていうのは、少しずつ感じてきています」。優勝したこの大会ではシニア大会で初めてSP、フリーとも3回転半を跳ばなかった。

 そうして1度、トリプルアクセルとの「お別れ」を決めた11年の冬-。ただ、その直後、もう1つの大きな「別れ」が待っていた。【阿部健吾】

亡き母との約束忘れない/真央連載4

[ 2014年2月3日9時3分 紙面から ]

<連載:浅田真央 悲願女王へのラストダンス第4回>

 日本時間11年12月9日早朝、浅田真央はシカゴから飛び立った日本行きの航空機の機内にいた。引き裂かれそうな心を占めていたのは、母匡子さんの姿。「自分の帰りを待っていてくれる」。そう信じて。

 一報は8日。9日に開幕するGPファイナルに備えて、カナダ・ケベックにいた。関係者から電話が鳴ったのは早朝。名古屋市内で入院していた母の容体が悪化したと伝えられた。「帰らなきゃ」。日本へ一刻も早く。試合の欠場を一瞬は迷ったが、心はすぐに決した。経由地のシカゴでは何度も名古屋に電話した。危篤状態で病と闘う母。米国と日本の約1万キロの距離が恨めしかった。

 機上にいた日本時間9日早朝、肝硬変のため48歳で母は逝った。数時間後、成田空港に到着した浅田に父敏治さんから届いたメール。「ママは頑張れなかった」。涙が止まらなくなった。病院に着いて安らかに眠る母に、何度も「真央だよ!」と叫んだ。だが、その目は開くことはなかった。

 深い悲しみの中、ただ、歩みは止めなかった。それが母との約束だった。バンクーバー五輪直後、母は「私は引退する」と娘に告げた。それまでは必ず練習に顔を出し、世界中の試合に同行した。それが、突然の引退宣言-。すべては病の重さを悟った母が、自分がもしいなくなっても、娘に自立して歩んでほしいと考えたから。この数年は体調が悪いと入院し、回復すると退院の繰り返しだった。最後の半年は、娘は名古屋を離れるときはいつも「これが最後かも」と覚悟していた。そして、母と決めていた。「自分の夢に向かって、やるべき事をしっかりやる」と。

 通夜、告別式を親族で終えた12日、所属事務所を通じて23日に開幕する全日本選手権に出場することを発表した。翌13日には、約1週間ぶりにリンクに戻った。迎えた25日、フリー「愛の夢」を滑り終えた浅田は天を仰ぎ、そっと目をつぶった。優勝-。「自分もすごくうれしいですし、(母も)喜んでいる」と、目が少しだけ潤んだ。大会中、1度も口にしなかった「母」という言葉。言えば心が揺らぐ心身に耐え、母との約束をしっかり果たした。

 ただ、この優勝で出場を決めた12年3月の世界選手権の結果が、浅田に競技人生で初めて「引退」を考えさせることになったのだった。【阿部健吾】(つづく)

憔悴…「スケートやめたい」/真央連載5

[ 2014年2月4日9時23分 紙面から ]

<連載:浅田真央 悲願女王へのラストダンス第5回>

 「やめる」「もう嫌だ」。浅田真央がフィギュアスケートをやめたいと思っていた。5歳で始めてから、ただの1度もそんな感情は抱かなかった。12年の春先、それほど体も心も憔悴(しょうすい)していた…。

 11年12月に最愛の母を亡くした後も、浅田は休まなかった。直後の全日本選手権では優勝、12年の年明けも休んだのは元日だけで2日から練習を再開、2月には米国で4大陸選手権に出場。標高1800メートルの高地での大会は、空気抵抗の少なさでスピードが増す勢いを利用し、3大会ぶりにトリプルアクセルも解禁。SP、フリーとも回転不足だったが、手応えがあった。

 佐藤コーチに師事して1年半。目指す「流れで跳ぶジャンプ」に手応えを感じていた。跳ぶ前と跳んだ後にスピードの差がないジャンプが佐藤流で、安定性に加え、出来栄え点にも影響する。だから、フランス・ニースで開催された3月の世界選手権では結果が出ると信じていた。そして、そこに落とし穴があった。

 南フランスの快晴のビーチと対照的に、フランスでの浅田の表情は常に曇っていた。到着後から試合までトリプルアクセルがまったく決まらない。「なんで調子が上がらないんだろう…」。原因不明の不振に、口をとがらせた。結局、佐藤コーチに直談判して挑んだ試合ではSPは2回転半に、フリーは1回転半に。練習含めて56回も挑戦し、成功は1度もなし。順位は前年大会と同じ6位だが、手応えが霧散した。「いままで何をやっていたのかな…」。

 帰国直後、姉舞さんに伝えた。「スケートをやめたい」。抑えていた母の死の悲しみも、次の目標を失ったことであふれた。もともと「すぐ忘れること」が長所でも短所でもある。「試合で負けると残念な気持ちになるけど、次の試合で喜んで、それで忘れてしまう」。そんな性格の浅田が、どうしても忘れることができない。目標を見失い、リンクに行きたくないと、初めて思った。

 そんな競技人生で最もつらい時期、それを救ったのは家族の力だった。(つづく)

恋の話も…優しさで再生/真央連載6

[ 2014年2月5日8時52分 紙面から ]

<連載:浅田真央 悲願女王へのラストダンス第6回>

 姉妹はハンガリーのブダペストにいた。街の中心を流れるドナウ川を横目にしながら、浅田真央は姉の舞と2人っきりで、町を巡り巡った。12年夏、太陽がまぶしい世界遺産の古都で、浅田は少しずつ再生の時を迎えていた。

 11-12年シーズンの最終戦だった世界選手権は6位。成長の手応えを失い、11年末に他界した母の悲しみも募った。スケートへの意欲をなくし、佐藤コーチからしばらくリンクを離れることを勧められた。

 そんな妹の苦悩を見た姉は、競技のことは話題にせず、ただ寄り添った。バレエレッスンのためハンガリーに向かった妹に現地で合流。忙しくて取れなかった姉妹の時間を一緒に過ごした。英語表記もない、誰も2人を知らない、初めて訪れた町。世界で2番目に古い鉄道の地下鉄の切符を買うのも一苦労。でも、それが楽しかった。フィギュア漬けでない毎日-。バレエ観劇をし、食事をする。バラの形をしたジェラートを食べながら、将来のこと、恋の話など、時間はあっという間に過ぎた。

 当初は2週間滞在して米国に移動する予定が、浅田は「もうちょっといます」とおねだり。それから1週間過ごして、ようやく欧州を後にした。姉との会話、解放感に、心が少しずつ前を向いていった。

 それより少し前、5月のカナダでは、大きな優しさに出会っていた。振り付けを手がけるローリー・ニコル。来季のSPのため用意してくれていた曲は「アイ・ガット・リズム」。1930年作曲のジャズの名曲で、歌詞は「人生って輝く太陽みたいにもなるのよ。ため息なんてつくこともなく♪…」と始まる。そこにはニコルの「毎日リンクに来るのが楽しくなるように」との願いが込められていた。悩む浅田のため、フィギュアの曲自体に「再生」への思いを込めていた。自宅にも招き、湖畔でカヌー体験などもさせてくれた。そんな心遣いに、次第に浅田の表情も晴れていった。

 ハンガリーから帰国後、再会した佐藤コーチに伝えた。「心配をおかけしましたが、もう大丈夫です」。12-13年シーズンへ気持ちが前を向いた。そして感じていた。「やっぱり自分はスケートが好きなんだな」と。(つづく)



バンクーバーから、この4年間、苦労の連続でした。(ノ_・。)

しかし、今調子が良いので、やってきた事の全てが無駄ではなかった事が唯一の救いです。

少し心配なのは、腰痛の再発でしょうか。

ベストな状態で臨める事だけが、本当に望みです。



↓神様、真央ちゃんの身体をお守りください……。(。-人-。)


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