Prosperity Gospel | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-

Prosperity Gospel



*長文です。時間があるときに読んでね。



ブラジルのキリスト教について。

 

 


前出のスペインへの宣教師のブラジル人、


スーパーアルフォンソさんに、


ブラジルに戻ってきて、この33年で、


「ブラジルは変った」と思うことは何か、


と質問してみました。

 

 

 


もちろん近年の経済発展は目覚ましく、


どんどんビルが建つし、


物価が上がるし、


人々の生活が豊かになりつつある。


それは言うまでもない。

世界の人もそれは知っているだろう。

 

 

 

でも一番変わったのは、、、、


とアルフォンソさんが始めたのは、


宗教の話だった。

 

 

 

アルフォンソさんが子どもだったころ、


つまり50年ぐらい前、


ブラジルはカトリックの国であり、


そのカトリックはどちらかというと形骸化しており、


つまりは日本の仏教のようなもので、


そのような宗教観が大多数だった。


プロテスタントのクリスチャンは人口の1%とか2%。


とてもマイノリティだった。

 

 

 


アルフォンソさんが成人し、


33年間海外で過ごす間に、


そのような状況は一変した。


今やプロテスタントが20パーセントに達し、


その間人口も増えてるので、


数にしてとか30倍とかになった。


いわゆる「リバイバル」というのが起こった。


教会は増えた。


プロテスタントのクリスチャンは、


もはや少数派ではなくなった。


ハレルヤ!


やった!


日本もそうなれば良いのに!


、、、


、、、

 

というわけでもないらしい。

 

 

 

 

もちろん全部ではないが、


その大多数について、


中身が果たして本当に聖書的なのか、


疑わしいというのがアルフォンソさんの意見。

 

 

 

 

個々の教会は競うように巨大教会を目指し、


牧師はカリスマリーダーになることを目指し


集うクリスチャンは「ご利益」を求めて教会に来る。


有名な牧師や「クリスチャンタレント」は毎日、


クリスチャンテレビ番組に出演し、ポップスターのよう。


みんな「あのような美形で金持ちで、


成功したクリスチャンになりたい。」と願う。



事はさらに複雑で、もう半回転している。


教会自信がこうアナウンスする。


「信仰を持つと、あのように成功した人間になれる。」

 

 

 

 


教会では、有名な牧師の「祈り」が込められた、


「効能のある塩」を売ったり、


「癒しの力があるハンドタオル」を販売している。


信者は高いお金を払ってそれを買い、


病気が治ったり、ビジネスが成功したり、


願い事がかなうようにそれを家に撒いたり、


身体に巻きつけたり、オフィスに置いたりする。

 


、、、


、、、

 

、、、

 

 


ちょっと待て。


これはルターが「プロテスト」したところの、


中世の腐敗したカトリックの姿そのものではないのか。

 

 

 

 


これを、「繁栄の神学 」という。

英語ではProsperity Gospel


アメリカを震源地として、


20世紀後半、全世界に広がった、


「非聖書的(と僕は思う)キリスト教」。


どうしてこんな倒錯が起こるのか、


天を見上げてしまう気持ちになるが、


現実は現実だ。





キリスト教の召しは、


高くなる召しではなく低くなる召しであり、


支配する召しではなくしもべになる召しであり、


得るための召しではなく、


与えるための召しではないのか。


ピリピ書2章を引用するまでもなく、


それは自明なのではないか。

 

 

 

東京の僕の家のトイレのカレンダーは、


マザーテレサのカレンダーである。


(マザー、トイレですみません。)


3月、4月の「名言」には、こう書かれている。


We were not called to success,


We were called to be faithful.


日本語訳も併記してあり、


「私たちは成功するためではなく、


 信じるために呼ばれたのです。」


となってる。


これは99%の確率で誤訳で、


「成功するためではなく、


 忠実であるために呼ばれた」


が正解。


聖書を知っている人なら、


文脈的にこれが誤訳であると気が付くはずだから、


もしかしたらクリスチャンじゃない人が、


日本語に訳したのかもしれない。

 

 

 


、、、


話を戻すと、


マザーテレサが言うように、


私たちは「成功するため」や、


「豊かになるため」に、呼ばれたのではない。


神に従うためだ。


神に従うこととは、


僕(しもべ)になることだ。


100%神に従い神の意図通りに生きた、


イエスの姿が「しもべ」だったのだから、


我々もそうなのだ。


これは行き過ぎた自己卑下の思想ではない。


結果的に成功したり豊かになることもあるだろう。


それに、神さまは自然や人生を、


ご自身の子どもたちが楽しむことを、


喜ばれるに違いない。

 

 

 

 

でも、


やはりメッセージの中心はこうである。


私たちは神様と他者に自らを捧げるのが


キリスト教の本質であって、


「神さまと言うメガバンクから、


 出来る限り多くの祝福を引出す。」


というのは聖書の語法ではない。


特にその祝福の中身が、物質的繁栄となると、


もはや聖書の教えと真逆だ。

 

 

 



「神が私たちをその信心深さゆえに、


 特別に祝福するのがキリスト教」


というご利益宗教的聖書の読み方は、


聖書をテキストとした「国語」の解答としてペケなのだ。

シンプルで致命的な論理学的間違いだ。

文脈を無視して抜粋して「ここにこう書いている!」


と強弁することもできるかもしれないが、


申し訳ないが、逆立ちしてもそれは誤りだ。

 

 

 

 


「黄色信号の意味は急げだ、と言われていますが、


 それは誤りです。」


というテキストがあったとする。


その前半だけを取り出して、


このテキストの本意は、


「黄色信号の意味は急げだ。」


ということですね?


と言っている人に似ているのだ。

 

 

 

 

、、、


もういちど話を戻す。


アルフォンソさんはさらに続けた。


最近驚くべきニュースがあった。


ファンダメンタル(原理主義的)な、


福音派のクリスチャンの政治的グループが


ブラジルにはあるのだが、


その政治家たちが逮捕された。


ある人がビデオカメラにそれを映していた。


この政治家たちは部屋に集まり、


熱心に神に祈っていた。


「神さま、資金が足りません。


 与えてください!!」


その後、


彼らは不正な方法で賄賂を受け取った。


「神さま、祈りに応えてくださって感謝します!」


その一部始終がビデオによって明らかになった。


結果、彼らは逮捕された。


彼らはこの上、


「神のご計画を阻止するために


 警察をサタンが利用した」


とでも言うのだろうか。

 

 


違う。

 

 


憐み深い神様が、警察を用いて、


彼らをこれ以上の悪事から守ってくださったのだ。

 

 

 

 

 

アメリカには沢山のブラジル人教会があるという。


その多くは同じように繁栄の神学に汚染されている。


アルフォンソさんはそのような教会のひとつに出席し、


言葉を失った。

 

 


彼らは熱心に祈っていた。


何のためかというと、


「明日、我々の仲間が隠れて国境を超え、


 アメリカに入国しようとしている。


 神が彼を守り、警官に見つからず、


 無事アメリカに入国できるように」


だそうだ。

 

 

 

 

 

 

言っている意味が分からなかった。


それは、不法入国ではないのか。


そもそも、集っている人の多くは、


不法に入国していた。


それは、悪いことではないのか。


それは嘘をつくことではないのか。


聖書には「偽りの証言をしてはいけない。」


と書いてるんじゃないのか?


これはキリスト教なのか?


教会のメッセージで、


いったい何を教えているんだ?


アルフォンソさんは途方に暮れた。

(*不法入国しなければならないほど追いつめられている、

 弱者としての南米の人々を、そこまで追い詰めたのは、

 そもそもアメリカじゃないか、

 という反論もあるかもしれませんが、

 論点のすり替えであって、

 それは、もうひとつの別の話です。

 僕も、「アメリカ型自由主義」が生み出す、

 弱者が感じる矛盾について、

 理解しているし、無視されるべきでないと思います。

 でもそれは議論のフレームワークを超えるので、

 今回「法律を犯す」という点だけに絞って話しています。)

 

 

 

ブラジルには繁栄の神学がはびこっている。


それは白アリのように教会の土台に巣食い、


プロテスタント教会から、


「キリストらしさ」を奪っている。


献金の時間が異様に長く、


その間牧師は「献金することによって、


あなたは見返りにどれぐらい祝福されるか」を、


聖書の言葉を駆使して訴え続ける。


いったいこれは何だ?

 

 

 

日本のキリスト教会にも、


ある程度この教えは入ってきている。


一部はアメリカから。


一部は韓国から。


それは白アリのように、


または過剰な砂糖のように、


キリストの身体をむしばむ。


キリストの身体(=教会)は、


ブラジルにおいて、


繁栄の神学という大量の砂糖によって、


糖尿病になり、体調を崩し、


失明しかかっているように見える。

 

 

 

 

我々は塩ではないのか。


たとえ数において爆発的に成長しても、


塩が塩けを保っていなければ、


社会に何の影響ももたらさないどころか、


かえって社会に悪いことをする。


イエス様が山上の垂訓で教えたことだ。


形骸化したカトリックの批判をする前に、


プロテスタント教会も、


よくよく自分を吟味する必要がありそうだ。