ケニア人カロビアとの会話 | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-

ケニア人カロビアとの会話

 

ブラジルからこんにちは。

日本の人聞こえますか~!



*思いのほか長い記事になったので、

時間のあるときに読んでください。



僕は今DNAフォーラムという集まりに参加しています。


前回は2年前の2011年、震災の一週間前に、


南アフリカで開かれた、


「世界で全人宣教を実践する人たちの集まり」です。

 

 

 

今回の参加者は100名程度。


中南米からの参加者が半数以上です。


アジアから来てるのは、


僕と、バングラデシュからの夫婦と、

ひとりのインド人がいるだけ。

 

 


毎回のことだけど、


海外に来ると、日本のことが良く見えます。


自分の乗っている船の形は捉えづらい、


みたいな感じで、


どっぷり日本にいると、その社会が


どんな形かを把握するのが難しいのです。


日本を離れると日本を相対化することが、


やり易くなります。


あるときはその社会が如何に歪んでいるかを知り、


あるときは日本が如何に素晴らしいかを知ります。


日本にいたら気が付かないような多くの事に、


国外に出ると気が付くのです。






国外ならどこでも同じかと言うとそうでもなく、


日本と言う船から近い船があり、


遠い別の船があり、


北に位置する船があり、


東に位置する船があるわけです。

 

 

 


僕は今ブラジルにいて、


アフリカ人と結構話しています。


参加者の半数以上が中南米の人々で、


彼らの多くはポルトガル語かスペイン語しか話さないので、


英語を話せる人、ということになるとアフリカ人になります。


アメリカ人のサークルに突っ込んでいくことは、


結構勇気が要るので、滅多なことではしません。


(経験ある人もいるかもしれないけど、


 アメリカ人同士のサークルは、


 入って言ったが最後、

 一体何言ってるか分からないんだもの。


 少なくとも今の僕の英語力では。


 一人ひとり、ワンオンワンなら、


 90%意思疎通出来るんだけど。)


セインカミュみたいな日本語ペラペラな外国人でも、


女子高生同士の会話や、


大阪のおばちゃんの会話に突っ込んで行くのは難しいでしょ。

きっと。


それと同じです。


いわんや、僕の英語力はセインカミュの日本語力を、


遥かに下回っているわけで。

 

 


、、、


僕がしたいのは英語の話ではない。





文化の話です。

 

 

 


ケニア人カロビアと、


昨晩話しました。


彼とは2011年に南アフリカで会って以来、


2年ぶりに話しました。


そのときは彼の奥さんと一緒だったんだけど、


彼の奥さんはその3か月後に突然亡くなりました。


僕はそのニュースを他の人のメールで知ったんだけど、


とてもショックでした。


当時1歳、3歳、5歳の男の子を残して。

 

 

 


カロビアは言いました。


「それ以来、全てが変わった。」


でも今、彼は立ち直りつつあり、


従妹と一緒に暮らして子育てと


全人宣教の働きに励んでいます。


「イエス様は、ハッピーなことだけを約束したんじゃない。


 私たちは苦しむ、とイエス様が言われたことを、


 今はとても良く理解できる。


 私たちの国では多くの人々が交通事故で毎日死んでいる。


 その人たちには家族がいて、


 その人たちは誰かのお父さん、お母さん、


 旦那さん、奥さん、子どもたちなんだ。


 それを考えると今は心が引き裂かれる思いだ。


 日本の震災もそうだろう。


 私は以前とは違う方法で、


 他者の苦しみを理解することが出来るようになった。


 でも私は希望を失わない。


 苦難があっても希望を失わない、


 と約束したイエス様が真実だということを、


 私は以前にも増して確信することが出来る。」

 

 

 


慰めの言葉も見つからない出来事だけれど、


それを乗り越えつつある彼を尊敬しました。

 

 

 


カロビアは日本のことも聞いてくれました。


日本の社会が抱える問題について。


孤独な個人と自殺率の高さについて。


離婚率の上昇と人々の繋がりが弱くなっていることについて。


震災後も「元に戻ろうとする」、変われない姿について。

 

 

 

 


「日本も韓国もアメリカもヨーロッパも、


 同じような問題を抱えている。


 離婚率の高さ。


 孤独。


 社会の脆弱化。


 これらは経済成長とセットなのだろうか。」


カロビアは言いました。


「今やすべての国々が、


 アメリカや日本になりたがっている。


 つまり経済成長と快適で豊かな生活を求めている。


 でも、日本やアメリカが抱えるような、


 『先進国病』は、


 経済成長の避けることの出来ない副作用なのだろうか?


 それを避けることが出来る方法は何かあるんだろうか?


 ケニアも経済発展している。


 でもその結果として、


 日本やアメリカのような苦しみもセットで来るのなら、


 本当に経済発展すべきかどうか躊躇する。


 第三の道はないのだろうか?」

 

 

 

 

マルクスが指摘する、


工業型資本主義による人間疎外は、


不可避なのか?

 

 

 

 

不可避かもしれない、


と僕は個人的に考えている。


工業型資本主義は、大量生産、大量消費を要請する。


資本主義が上手いこと回る前提条件は、


市場が拡大し続けることである。


市場の拡大はイノベーションによっても起こるが、


工業製品→ブランド製品→IT革命→金融商品


と言う風に「イノベーション」は変遷してきて、


その次の次元の革命が起こるかどうかは甚だ疑問だ。

人間の胃袋とは関係なしに拡大し続ける資本主義のスケールを、


人間の欲望の総量は、支えきれなくなってきている。

 

 

 

資本主義のスケールが大きくなるには、


市場が拡大する必要がある。


イノベーションを除くと、


市場(消費人口)が増える方法は二つある。


ひとつはベビーブームの20年後。


もうひとつは家族(共同体)の解体である。


本当は三つあり、


近代的植民地化(外部に市場を求める)があるが、


これについては今回は触れない。

 

 

 

 

ベビーブームの20年後に消費市場は拡大するが、


先進諸国ではこれは「起こりえない。」


インマニュエル・トッドという民俗学者が、


看破している。


女性の識字率が一定数を超えると、


その社会は民主化し、出生率は減少する。

 

 

 


残る道は何か?


共同体の解体である。


「3丁目の夕日」の時代、


テレビは数軒の家庭にひとつだった。


当時は大所帯だったから、


100人の人口に対してテレビは10台と仮定しよう。


人口の絶対数を増やすことなく、


つまり100人を200人にすることなく、


テレビという工業製品をもっと沢山売ろうとすると、


一家に一台テレビを持つようにすればよい。


その方が便利だし。


かくして「個人の自由」と「市場」が拡大した。


その代りに、「三丁目の夕日」に見られる、


近所で力道山の上映会をするような光景は失われた。


つまり、共同体が少し解体した。

 

 

 

 

 

100人を増やさずに、


さらにテレビを売りたいと思ったとする。


どうするか?


家族が5人だとすると、


一家族に一台のときは、


売れたテレビは20台だった。


家族が別の部屋に暮らすようにして、


1人1台のテレビを所有するようにすればよい。


これで100人の人口に対して


100台のテレビが売れるようになった。


ついでに、電力消費量も増えた。


経済は成長した。


子どもたちは自分の部屋を持った。


個人の自由と市場がまた拡大した。


これによって失われたものは何か?


家族みんなで「サザエさん」を見るような光景である。


共同体はまた少し解体した。

 

 

 


「市場」は、さらに工業製品を売りたいと考えたとする。


どうすれば良いか。


もうお分かりだろう。


5人家族が、それぞれに部屋を借り、


それぞれに家を建て、


それぞれに車を所有すれば良い。


電子レンジも掃除機もテレビも冷蔵庫も、


すべてこれまでの5倍売れる。


電力消費量も上がった。


市場は拡大し、経済は成長し、


個人の自由はさらに拡大した。


これによって失われたものは何か?


家族という共同体のさらなる解体である。

 

 

 

 

経済成長が意味することはこういうことだ。


GDPと完全な相関関係にあるものは何かご存知だろうか?


電力消費量だ。


これは完全に符合する。


おもしろいほど。


一次関数になっている。


Y=aXの関係。


YがGDPで、Xが電力消費量だ。

 

 

 

 

これは市場の陰謀説ではない。


市場は人格を持っていない。


でも社会が集団として市場の原理で動くと、


社会全体は、あたかも市場という人格に操られているように、


ステレオタイプと言ってよい変革を遂げる。


共同体が解体し、孤独な社会が生まれるのだ。


(ここまでの論のほとんどは僕の発明ではなく、


 去年沢山著作を読んだ、


 平川克美さんから借用した。)

 

 

 


この「先進国病」は、


最初欧米で起こり、


次に日本で起こり、


今は韓国、台湾、中国、インドの都市部で起こっている。

 

 

 


、、、


次はケニアか?


ケニアは経済成長をした場合、


この「運命」から逃れられないのか?


これがカロビアの質問だった。

 

 

 


カロビアはこれが起きてほしくない、


と真剣に考えていた。


でも、乳児死亡率の低下、


教育の向上、


インフラの整備、


あらゆる意味で、経済成長の恩恵は魅力的だ。


でも、共同体の解体は、コストとして釣り合うのか?


「ケニアの殆どの人は、

 
 先進国にさえなれば、


 幸せになると信じて疑わない。


 日本やアメリカや韓国のそのような暗い側面を、


 人々はまったく知らない。」


カロビアは危機感を持っている。


「先進国病」を逃れ、


なおかつケニアが発展する道筋はあるのか?


彼は頭を抱え、真剣に悩んでいた。

 

 

 


大丈夫、ケニアは大丈夫、


と僕は言えなかった。


言えなかったけれど、


彼のような人が一定数社会にいることは、


ケニアの未来にとって1つの希望に違いない、


と思った。

 

 

 

 


今の日本社会に、


果たして「カロビアの悩み」を共有する人が、


どれぐらいいるだろう?


日本が経済成長の代償に失ってきたものを嘆き、


犠牲を払ってもそれを回復する道を捜す人が、


その可能性について思いを巡らす人が、


どれぐらいいるだろう。


少なくとも今永田町で高笑いしているグループには、


皆無だと僕は思う。