続・3.11 | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-

続・3.11


【続き】



 

オウム的なるものは、


我々の中にもある。






そこをしっかり見つめなければ、


それは名前を変え、形を変え、


未来において私たちの前に再び現れる。


いや、オウム的なるものは、遠い過去にも現れていた。


それは満州国であり、日本陸軍であり、


全共闘であった。






、、、


未来において、必ず私たちの前に


オウム的なるものは姿を現す。


今度は名前を変え、顔を整形している。


そして我々は「それ」とは気が付かず、


喝采をもってそれを受け入れてしまうかもしれない。






「ワクチン」となるような物語を社会が持っていなければ。

 

 



ここからは僕の個人的意見なのだけど、


現代においてもしかしたらそれは、

「反原発イデオロギー」かもしれないし、


ナショナリズムかもしれない。


特定のカリスマ的政治家による民族主義かもしれない。


(僕は長期的には原発は無くなった方が良いと思っているし、


 日本のことは好きだし、


 政治家の歯切れが良いこと自体に、

 
 文句はない。


 でもひとたびそれが「ドクトリン」となり、


 より純粋な人がそうでない人を攻撃し始めると、


 それは「オウム的なるもの」の入り口である。


 新左翼の内ゲバで、


 我々は経験済みだ。

 カルトをカルトたらしめるのは、

 教義の非正統性ではなく、

 信じ方の独善性と排他性にある。)


歴史が教えてくれるのは、


破壊者は必ず「救世主」の顔をして舞台に姿を現す、


ということだ。

 

 

 

そして村上春樹が言うように、


社会が「ワクチンとなる物語」を持っていなければ、


我々はいとも簡単にそのような「悪しき物語」に、


巻き取られてしまうのだ。

 

 

 

 


これが村上春樹の問題意識だった。


2年後にアンダーグラウンドを出版し、


さらに1年後、「約束された場所で」を、


彼は出版した。


後者は、元、あるいは現役オウム真理教信者への、


インタビュー集だった。

 

 

 

 

この仕事が後に、


「1Q84」となって結実したんだということが、


とても良く分かった。

1Q84は、明確に、「ワクチンとしての物語」だった。


村上春樹にとって一対のノンフィクションは、


3年間の基礎調査だったのだ。

 

 

 


、、、


震災の話に戻る。


東日本大震災と原発事故は、


日本の近代史を変えるほどの大きな事件だった。


オウムの時と違って、


今度は天災だが、人災の側面もある。





この災害と事故を通してなお、


我々が何も学ばないとしたら、


それは本当に悲しいことだと僕は思う。


村上春樹のような深い考えも、


天性の才能も影響力も僕は持ち合わせていないが、


2年間、そればかり考えていた。


「新しい物語」を、この震災を通して日本が得ることを。


かつて動乱と天災の悪夢の果てに、


親鸞が紡いだ物語のように。

 

 

 

 

、、、


ところが現状は、


「古い物語」に、


日本人は帰ろうとしているように見える。


戦後レジームに。


自民党55年体制に。


「強い日本」に。


経済成長という過去の成功体験に。


心に傷を負った人が、


布団にくるまって過去のノスタルジーに浸るように。

 

 

 


駄目だ。


帰っちゃいけない!

もっと言えば、帰ることはできない。

行き止まりだから。

この話は長くなるのでまた別のときに。

 

 

 


所得倍増や、


バブル絶頂期を経験した


上の世代の方々がそこに帰りたくなるのは、


分かる(分かりたくないけど)。


またかつて社会がオウムにしたように、


全ての悪を東京電力と民主党になすりつけ、

くさいものには蓋をして、


「まともで快適な日常」に帰りたくなる気持ちも、


分からないではない。

、、、上の世代の人に関しては特に。






でも、僕らの世代は違う。


違うべきだと、僕は考える。


新しい物語を紡いでいく責任が僕たちにはある。

 

 

 

、、、


戦後の焼け野原から立ち上がった時代の政治家と、


今の総理大臣の一番の違いは


「もち肌と滑舌の悪さ」ではない。


「思想」の違いなんではないかと、僕は思う。


今の政治家の顔はのっぺりとしている。


「世界と日本の100年後」を見つめて、


命がけで物語を紡いでいくような気迫も度量もなく、


「Worst」と「Bad」の選択で、


苦渋の「Bad」を選べるような、


そのプロセスでそれを周りに納得させられるような、


人格的な粘り気がない。

世論も思考がどんどん短絡的になっていて、

「思考の手数が少ない政治家」を、

拡大再生産している。

 

 

 


今の日本にあるのは、


四半期ごとの為替の動きと、


輸出入の貿易収支やGDP成長率を


そろばんではじき、


「何が合理的か」


を論理的に突き詰めていく政治家の姿と、


それに同意する世論の姿だ。


世の中には、しかるべく、


合理的な回答があると信じて疑ったことのない、


学校秀才のような薄っぺらさがそこにはある。


「約束された場所に」に出てくる元オウム信者の若者の、


大きな特徴の一つはこの、


「社会や人生には論理整合性のある、


 明確な答えがあるはず(なければならない)」


という、学校秀才的な誤った思い込みだった。

 

 

 


本当の世の中は、答えなんて出ないことの方が多い。


考えたって分からないことの方が多い。


論理的に整合性があっても、


「道理」には反することなんて、


掃いて捨てるほどある。


じゃあ世の中の理とは何かと言うと、


もっと身体と結びついた、というか、


土と結びついた、というか、


本能的な部分なんじゃないかと思う。


知恵あるおばあちゃんやおじいちゃんが、


「理由は説明しない。


 駄目なものはダメ。」


というような。

論理で説明した時点で、

その意味を失ってしまうような。

 

 

 


、、、僕は震災後2年、


村上氏にならい、


自分なりに、この震災の意味を言葉にしつつある。


明確な回答のようなものはないけれど、


暫定的に、言葉にしつつある。


僕は作家ではないので、


小説やノンフィクションと言った媒体は持たないけれど、


今僕が与えられた所与の条件の中で、


震災後の「物語」を紡ぐ、という作業をしている。


実はそれこそが、復興支援の本丸なのかもしれない、


とすら最近は思う。


そう思っている人が日本にどれほどいるか分からないけど、


僕だけじゃない、と信じている。


その物語は「生きる」ことによって語られる。

それは何も被災地に行かなくても、

紡ぐことの出来る物語だ。

あなたの足元から。

あなたの「今日」から。


一緒に「新しい物語」を紡いでいきましょう。