3.11 | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-

3.11


どうも僕です。


あの震災から2年が経つんですね。


僕は震災の当日、エチオピアのアジスアベバにいました。


このブログにもそのときのことは書きました。



震災二年目の今日、僕はまた国外のブラジルにいます。

意図的にやっているわけではないけど(できません。)、

何かの巡り合わせなのでしょう。

 


 

話を2011年に戻ります。

3月16日までエチオピアにいたから、


震災後も5日間は国外にいました。


生きた心地がしないというか、


心配で心配で、


毎朝テレビが設置されている近所のローカルカフェに行き、


ずっとBBCのテレビを見て、


ネットカフェでNHKオンラインの情報を追跡し、


Twitterなどの書き込みを見ていました。


メールはなぜか送信も受信もできなかった。

 

 

 

エチオピアの教会や、


パートナー団体のスタッフに、


日本は今国難なんだ、というようなことを伝えて、


お祈りしてもらった。


彼らは涙を流して祈ってくれた。


彼らの収入からするとあり得ないほどの献金もしてくれた。

 

 

 


人っ子一人いない成田空港の入国ゲートと、


日本から逃げる外国人でごったがえす出国ゲートを横目に、


僕は帰国し、真っ暗な東京の夜を、


誰もいない自宅に帰った。


自宅には本などが散乱していた。

 

 

 

それからの2年間は、


このブログでも紹介したように、


僕たちFVIは


「もしかしたらこのために私たちは、


半年前にNGOを設立するよう導かれたのかもしれない。」


というような気持ちで、


福島県に行き、支援活動を続けてきた。


最初はお金も全くなかったが、


間もなく国内外から募金が寄せられ、


今も活動を続けてこれている。


おかげで震災前に比べると、

福島県にはずいぶん詳しくなった。

 

 

 

 

2年が経った今、


そのことを言葉にする機会が、


少しずつ与えられてきている。


今週の水曜日は、


ブラジルで福島の事を話す。





中南米、北米、アフリカなど全世界から、


人々が集まるカンファレンスで、


福島の活動のことを話して


福島のために祈ってもらう機会をいただいた。





話がそれるようだが、

最後につながる話なので、

ここで村上春樹のノンフィクションの話をします。

 

 

ブラジルに向かう飛行機の中、


僕は村上春樹のノンフィクション、


「約束された場所で」を読んだ。


この本には伏線がある。


サブタイトルは「アンダーグラウンド2」だ。


アンダーグラウンドというのは、


オウム真理教による地下鉄サリン事件後、


村上春樹が被害者一人ひとりに会い、


話を聴き、その話を活字にしてまとめた、


という仕事。





僕がこれを読んだのは2008年で、


その時僕はインドにいた。


めちゃくちゃ分厚い文庫本だったので、


向こうで活字が恋しくなったときに、


読み応えがあるだろうと思って買っていった。


読みごたえは、あった。


とても丁寧な仕事だった。


良くつくられた工芸品を見るときのように、


それが丁寧な取材に基づく、丁寧な仕事だと、


手に取って読んでいて分かった。

 

 

 

 


何より、村上春樹がこの仕事をしようと思った動機に、


僕は心を打たれた。

 

 

 

 

オウム真理教による地下鉄サリン事件は、


ある意味で戦後最大の「事件」と言って良く、


しかも東西冷戦の終焉直後に起きた、


ある意味日本社会の病理を象徴するような、


もしかしたらこの前後で


日本の近代史の潮目が変わるような、


そんな事件だった。

 

 

 

 

にもかかわらず、


それを報じるメディアの論調も人々の反応も画一的で、


「オウムは悪。被害者は善。


 オウムは異常。我々はまとも。


 以上。」


というような平板なものだった。


そこには、「我々の中にオウム的なるものを


生み出さざるを得なかった、


社会病理的必然のようなものが、


あるのではないか。」


という視点も想像性も欠如していた。

 

 

 


とにかく臭いものには蓋、と言う感じで、


メディアはすべての悪とおどろおどろしさを、


オウムとその周辺になすり付け、


まるで家畜伝染病を駆除するときのように、


オウムと名のつくすべて社会から排除し、


「またクリーンで清浄で平和な、


 我々の日常に戻りましょう。」


と言っているような感じだった。


でもそれは異様なことだと、


村上春樹は感じた。

 

 

 

 

違う。





オウム的なるものは、


我々の社会が内包しているのだ。


上九一色村の強制捜査も、


破壊防止法も、


麻原の逮捕も村井の死も、


すべて症状に対する出来事であって、


「病因」は排除されていない。


解熱剤を飲んで熱が下がっても、

悪性病原菌は、


生体からいなくならないように。





【続く】