バスにて | 陣内俊 Prayer Letter -ONLINE-

バスにて


僕です。


バスにいます。



ブログについて、


プレヤーレターについて、


様々な場所でのプレゼンについて、


考えています。




プレヤーレターは、


2カ月に一度、


お祈り、ご支援くださっている一人ひとりに対し、


活動の報告の目的で送らせていただいている。




実はこれは毎回悩んでいる。


深く考えている。


2カ月に一回って、


一人の人間が何かを発行する頻度としては


結構高い。




読む方は5分で読めるけど、


書く方は2カ月休まず悩んでいる。


僕にとっては常時原稿を抱えている状態が出来上がる。





また、特にこの半年間、


いろんなところでいわゆる「プレゼン」や


お話をさせていただく頻度が高く、


常時3~4のプレゼンを同時に準備しているような感じ。





ブログ記事を書くのは


僕にとってもはや「手グセ」みたいになってて、


タスクというより、思考の補助器具みたいなものなので、


特に悩むことはない。




ただ、ブログを初めて約2年が経とうとしている今、


多分、僕の思考は一周した。





全部言いきったんじゃないかな?


30年そこそこの僕の人生で経験できることなんて、


たかが知れていて、


埋蔵されている知恵の底は浅く、


どうやら枯渇した。


いや、もう枯渇して久しいんではないでしょうか?




伝えたいことなんて、


そもそもそんなに多くはない。


関心のあること全部を言おうとすると、


結局何も言ってないのと同じことになる。




そして、何かを雄弁に語るのは、


実は言語化されていない余白の方だったりする。


僕が本当に言いたいことは、


書かれたことの中にではなく、


書かれていないことの中にあるんではないか、


と思っている。





さらに本当の本当を言うと、


アウトプットは僕の言葉ではなく、


僕の「ライフ」なんだと思う。





僕の行動や生き方が、


僕の言葉以上に雄弁に何かを語っているはずだ。


その「ライフによって語られている何か」と、


発している言葉の間の誤差が、


なるべく小さくあって欲しい。




これが僕の情熱の核心であり、


もし僕が何かの「プロ」であるならば、


そのプロとしての仕事の評価はこの一点に集約される。


これが出来てなかったら、


僕はアマチュアということになる。






以前のサラリーパーソンから、


今の仕事に「転職」して以来、


「世間」という名のクラブの、中と外の


中間みたいなところを歩いている。




世間という名のクラブを、


「日本的共同体」と表現する人もいるし、


「日本的システム」と表現する人もいる。




「そこからはみ出すことは、


 日本では「死」を意味する」


と養老孟司さんは言う。




日本は共同体の「間」で生きること以外、


生きていることと認識してもらえない。


だから、「人」じゃなく「人間」なんだと。




「日本的共同体の外の価値を理解する文脈を、


 日本は持たない」


と村上龍は言う。


「個人として生きるということを理解する文脈が、


 日本にはない。」





あくまで主観的に言うと、


僕は「日本的共同体」の中にいると感じることと、


外にいると感じることがある。





自らがしていることを、


「私がしているのは●●です。」と


一言で説明できる人が、


心底うらやましいと思うこともある。




僕も●●を持っているんだと思うけど、


●●が、長い。


長くなる。


しかも、いつも腑に落ちてもらえるわけではない。


首を傾げられることもしばしば。




自分の仕事を説明して、


首を傾げられる状態って、


男として、結構骨身に応える。



パチプロでさえ、


一言で説明して納得してもらえるのになぜ!?


首を傾げられるという結果は同じかもしれないけど。





要するに僕は、


世間の中と外の、


ライン上を歩いているんだと思う。





平衡感覚が問われる。


どちらかに落ちたほうが簡単だろうな、


と感じることもある。


ライン上の人は、


どちらからも理解されない。





個人として生きながらなおかつ、


その生き方が共同体に有形無形の利益を還元するような、


そんな生き方があるんだろうか?


そんな「世間」との付き合い方ができるんだろうか?




3年前には考えたこともなかった問いが、


今の僕の中に、ある。


ほとんど曲芸のようなことをしてるのかもしれない。


ドン・キホーテ的挑戦を続けているような感覚を、


持ち続けている。





でも、仕事を辞めるときに僕が思っていたのは、


僕が仕事を辞めることによって負うことになるあらゆるリスクと、


失うことになるあらゆるインセンティブ(権利)と、


かけることになるかもしれない


あらゆる人への迷惑と「ごめんなさい」を


総計した代価を払って、


「成功するという保障のない可能性に挑戦する権利」を得た。


馬券を買うようなものだ。




オッズはかなり高い。


ということはつまり、


リスクもかなり高い。





その時自分に問うた。


もしこの全ての代価を払って買った挑戦権を行使し、


その結果が不様な失敗だとしても、


誰かのせいや神様のせいにしないか?


お前は「自分でその失敗を買った」


と満足出来るか?


その答えが「YES」だったから、


辞表を書いた。


上司に「ミイラ取りがミイラになるぞ」


と言われた。


「世界の問題に取り組むお前が餓えたらどうする?」






挑戦権は、


まだ僕の手に握りしめられている。






勝てる気がしねぇ。





だから、神様に頼る。





ゴリヤテという巨人と対戦した、


少年ダビデの話が、


旧約聖書に出てくる。




ダビデがそのときどんな気分だったかは、


天国でダビデに聴いてみないと分からない。




でも、


彼は、実は手は汗でベタベタだったんじゃないかと、


今は思う。


足はがくがくふるえていたんではないかと。




聖書にダビデの心のヒダのことは書かれていない。


聖書を元にした日曜学校の絵本にも、


書かれていない。


淡々と史実だけが語られている。




その「行間」を読む自分が、


今は変わった。


だから、聖書を読んだ時の情景が、


僕の中で変わった。


それは僕にとってヴァーチャルな想像でなくなった。





「マジ逃げたい。」


ダビデはそう思っていたかもしれない。


挑戦権を今すぐ誰かに譲りたい。



・・・



でもきっと、主は助けてくださる。




確固たる主に対する信頼と、


縮みあがるほどの恐怖は、


一人の人間の中に共存しうる。


経験して初めて知りえた感覚。





「あのとき決断した、2年前の自分、


 死ねばいいのに。」


という後悔にも似た迷いと、


「負ける気がしない。主がいるから。」


という全身を預けられる主への信頼、


この二つのアンビバレントな感情は、


今も僕の中に共存している。





バスの中、


話しがあらぬ方向に飛んでしまいました。


書き物の話から、ゴリヤテの話しに。





独り言にお付き合い、ありがとうございます。