よく非二元のティーチャーやブロガーが、一般社会でのものの見方を「色の視点」、究極的な真理からの視点を「空の視点」などと表現する事があります。私はこういう文章を見ると、生理的に嫌悪感を感じます。

 

言いたいことはわかるんですが、「色」と「空」は、そのような二項対立的な文脈の中で使うと、本来の言葉の概念と、まるで意味が違ってくると思います。ひどいのになると、“二元の世界が色の世界で、非二元の世界が空の世界”などという者まで現れます。

 

非二元と二元は「視点」の問題ではなく、お互いを否定する論の関係なので、都合に合わせて、非二元と二元が共存してるかのような例え(コインの裏表とか)は、慎重に慎重を期するべきだと思います。

 

仏教に「二諦」という言葉があります。究極的見地から見た真理を「勝義諦」とし、世俗・人間・社会レベルの真理を「世俗諦」という分け方です。この区別の方が、「二元的には◯◯◯で、非二元的には△△△」などという迷妄的説明よりも、正しい表現ができるものと考えます。

 

また、「絶対的視点」と「相対的視点」という言葉も、似たようなシーンでよく使われますが、この言い方の方が、「色」と「空」よりは、はるかに正確な言い方だとは思います。それでも、天動説に対して地動説が絶対的に真理であるのと同じように、非二元が絶対的な真理ならば、二元論は誤り(幻想)だと言い切るべきでしょう。

 

ここに、ニサルガダッタ・マハラジの言葉を引用します。

 

マハラジ:相対的視点がいったい何になるというのかね?
      あなたは絶対的な視点から見ることができるのだ。
      なぜ相対性に後戻りするのか?
      絶対性を恐れているのかね?

 

(「I AM THAT 私は在る-ニサルガダッタ・マハラジとの対話」)