松田直樹
だいぶ更新が遅くなってしまい申し訳ありません。
こんな時こそと思っていつもは頑張って書いてたんですけどね。
さすがに今回ばかりは無理でした。
2011年8月4日。
松田直樹選手が永眠されました。
何から書いたらいいのか。
何を書いたらいいのか。
正直、いまだに全然わかりません。
連日、ニュースで報道されていた映像を見ててもどこか他人事で、
少し時間が経って落ち着いてきた今でも未だに事実を受け止められずにいます。
でも、病院で対面した松さんは確かに動かなかった。
山雅の3番のユニフォームを着て、スパイクを履いて、トレードマークのヘアバンドまでして、本当にいい笑顔で・・・
今にも動き出しそうだったけど、やっぱり動かなかった。
松さんの生まれ故郷の桐生市で行われた告別式にも参列させてもらいました。
当たり前だけど、
やっぱり動かなかった。
正直言って全然実感がなくて、
今でも、
「しゅうちゃん、元気?」
ってあの最高に無邪気でカッコイイ笑顔で話しかけてきてくれそうで。
松さんの事を書くということは、松さんの死を受け入れる事になる。
そう思って何だか怖くて、嫌で、ずっと書けずにいました。
あの松田直樹が松本山雅に来るかもしれない。
それを知ったのは2010年の暮れ。
マリノスを退団することが決まっていた松さんが退団セレモニーで言った言葉。
「俺、まじサッカー好きなんすよ。」
「マジでもっとサッカーやりたいっす。」
そう涙ながらにサポーターに訴える松さん。
既に引退を決めていた自分にとってその映像はとても衝撃的で、正直言えばとても辛いものでした。
たまたま同じ時期に同じような悩みを抱えていたのもあって比べるのもおこがましいような存在だったけど、
見ていて羨ましいと思うのと同時に、やっぱりこの人はすげーな。素直にそう思いましたね。
そして、本心を言ってしまえば、
俺もまだまだサッカーやりたい。
強くそう思ったのを覚えています。
Jリーグ。
アトランタオリンピック。
そして、ワールドカップ。
昔から至る所で松さんの活躍を見て来たし、
日本を代表するDFとしてここまでの日本サッカーを牽引してきた選手の1人である事は間違いありません。
そして何より横浜で生まれ育った小澤にとって、
マリノスでずっと活躍していた松さんは本当に憧れの選手でした。
闘志溢れるそのプレーも勿論の事、
存在感や格好よさ、そしてその生き様。
松さんの全てが本当に憧れでした。
だからこそ、
そんな素晴らしい選手が本当にこの松本山雅に来るのか。
正直、本当に会うまでは疑心暗鬼でしたね。
最初の出会いは松さんが松本に引っ越してきた日。
チャイムが鳴ってドアを開けたらそこには紛れもなく本物の、あの松田直樹がいました。
「今度、引越してきた松田です。 よろしくお願いします。」
・・・。
「こちらこそよろしくお願いします。」
そのくらいはちゃんと言えたと思ったけど、
正直、緊張しすぎてそのあと何を喋ったのかはいまいち覚えていません。
ほんとにあの松田直樹が来ちゃったよ。。
それが正直な感想でした。
それ以来、近所で会うたび、試合会場で会うたび、
屈託のない笑顔で気さくに話かけてくれた松さん。
カッコいい車に乗って、
嫌みのない自然なオシャレをして、
スタバのコーヒー片手に颯爽と現れる松さん。
距離が近づくにつれて今まで以上にどんどん憧れの気持ちが強くなっていったのを覚えています。
アルウィンで初めてプレーを見た時。
正直言えば、身体能力で全てをねじ伏せるような、
そんな昔のプレーの面影はあまりなくなっていました。
でも、その代わりに、それよりもはるかに大きなもの。
経験に基づく技術、戦術眼、そして何より昔から変わらない気持ちのこもったプレー。
新しい武器を手に今もなお必死に闘っている松さんを近くで目にしてきました。
その姿は昔から憧れていた松田直樹という選手そのものでした。
8月2日。
練習中に倒れたとの一報を受けた時、最初は何が何だかわかりませんでした。
色々な情報が錯綜する中、
どうやら心筋梗塞で倒れて病院で治療しているらしいということがわかりました。
もし本当に神様がいるなら何でもするから助けてくれ。
心からそう思いました。
そして日本、いや世界中でこのことがニュースとなっているのを見て、
病院に訪れる人達を見て、
改めて普段接していた松田直樹という選手がいかに凄かったか。
そんな所で改めてそれを実感したりもしました。
そして、2日後の8月4日。
願いは届かず、
松さんはこの世を去ってしまいました。
享年34歳。
本当に早すぎる別れでした。
神様なんてやっぱりいねぇ。
そう思いました。
家族や愛する人を残してこの世を去ってしまうのはどんなに無念だろう。
道の半ば、これからが勝負という時にこの世を去ってしまうのはどんなに無念だろう。
今まで自分が歩いてきた足跡や功績を振り返る時間があったのだろうか。
でも、病院で寝ている松さんの横でバカな話をした時、少し反応があったという話を聞きました。
きっと喋れなくても耳は聴こえていたんでしょうね。
だとすれば、きっと沢山の人がお見舞いに来てくれて、
沢山の人に愛されていたんだということ。
きっと伝わっていたんでしょうね。
そう思えば少しは前向きな気持ちになれるような気がします。
いつ命が尽きるかは誰もわからない。
もしかしたら明日が最後の日かもしれない。
もしかしたら人は生まれた時からいつ死ぬかが決まってるのかもしれない。
松さんが松本に来ることも、
そしてそこでこの世を去る事も、全部決まってたのかもしれない。
そうだとしたら、
いつその時が来てもいいように毎日を一所懸命生きなきゃ。
普段だったらそう思うんだろうけど、
今回ばかりはまだちょっと無理。
なかなか切り替えられずにずっと考え続けてます。
なんで生きてんのかなって。
なんで松さんがこの世を去らなければならなかったのかなって。
これにも何か意味があるのかなって。
先日のファン感での引退試合の時。
名波さんを始めものすごい豪華メンバーが集まってくれてたけど、
松さんと一緒のチームでサッカーが出来た事。
実はそれが何より嬉しかった。
約束したんですよね。
松本を全国区にするって。
確かに有名にはなったかもしれない。
でも、こんな形で有名になんてして欲しくなかった。
もっと違う形で・・・
もっともっと活躍して、この山雅というクラブをJ2、そしてJ1へ押し上げてもらいたかった。
もっとプレーを見ていたかった。
もっともっと色々な話を聞いてみたかった。
監督と揉めて代表合宿から帰ってきた時の話とか、
今まで出会った中で誰が一番嫌な相手だったとか、
サッカーと向き合う時、どんな気持ちでいたのかとか、
入場の時、一番最後に出ていくのは理由があるのかなとか、
色々なことが上手くいかない時、どうやって取り組んでいたのかとか、
本当にもっともっと聞きたい事が沢山あったのに。
変なプライドなんて捨てて、昔から憧れてましたって素直に言えば良かった。
不器用で、
熱くて、情に脆くて、
激情家で、そのくせ妙に優しくて、
そんな松さんが昔から大好きだったって言えば良かった。
病院で対面した時。
テレビで松さんの特集を見た時。
告別式で安永さんの言葉に松さんの子供が涙していた時。
最近しゅうちゃんってすげーいい奴と友達になったんだって、
今度家に遊びに行く約束したんだって松さんが嬉しそうに話してたって話を聞いた時。
これでもかってくらい涙が出ました。
本当に、どうしようもないくらい泣きました。
そして今の自分がわからなくなりました。
精一杯熱く生きてるのかなって。
まだまだ足りないんじゃないのかなって。
もっともっと頑張れるんじゃないのかなって。
おばあちゃんが亡くなった時にお坊さんに言われた言葉が妙に頭を過りました。
亡くなった方が最後に生きている方に残していくもの。
それは、
生きている事の有難みだって。
明日が来る事は当たり前なんかじゃない。
今、こうして生きてる事は当たり前なんかじゃない。
今、こうして生きている時間は、
もっともっと、もっともっと生きたいと願っていた誰かの、松さんの今なのかもしれない。
そう考えたら、
毎日、もっともっと必死に生きなきゃって。
もっと考えて、もっと悩んで、もっともっと一所懸命必死になって生きなきゃって。
少し時間が経って、ようやくそう思えるようになりました。
今、自分がするべき事。
今、自分が出来る事。
とにかく目の前の事に一所懸命になる事。
自分に正直に、熱く生きるという事。
これが松さんに教わった事だと、今はようやく思えるようになりました。
そして、引退をした身ながら本当に幸いな事に、
今年も長野県の国体選抜の一員としてサッカーがプレー出来る事になりました。
先日も国体の合宿があって今の自分と向き合ってきました。
今週の日曜日に本国体へ向けての北信越予選がアルウィンであります。
比べようもないけれど、
松さんのように熱く、気持ちを込めてプレーしたいと思ってます。
松さん。
ありがとうは言いません。
まだそんな気持ちにはなれないから。
でも、
松さんがこうして松本に来てくれたこと。
こうして自分達の心に残してくれたもの。
そして、ピッチで大好きなサッカーを大好きな仲間とプレーしている姿。
きっと俺は一生忘れません。
今までお疲れ様でした。
人より一所懸命、エネルギーを燃やして生きて来た分、
少しだけ休んでて下さい。
またいつか、
一緒にサッカー出来る日を楽しみに生きていきたいと思います。
小澤 修一