大英雄・平将門と北斗七星ライン
平将門(たいらのまさかど)!!
それは平安時代の武将、大英雄、大怨霊である!
今から1000年ほど前。関東の覇者でもあった彼は、朝廷の圧政から民を救うため、みずから「新皇」と名乗って反乱を起こした。
しかし、朝廷との戦いで彼は死んでしまい、斬られた彼の首は京都でさらされる。
民のために戦ったヒーローなのに、天皇や朝廷(藤原氏)に逆らった極悪人という汚名を着せられてしまうのである。
だが、やがて地響きや雷とともに将門の首が「もう一戦してやる!俺の体はどこだ!!」と叫びだし、胴体をとり戻すために首が白く光って、関東まで飛んでいったらしい。
将門の首のイメージ(笑) (画像:天下乃与太郎氏 )
そして、そのフライングヘッドが墜落したのが東京。今でも「平将門の首塚」と呼ばれる場所は、恐ろしい祟りが起きるといわれている。
移転しようとしても度々、祟りによって死者が出るほどらしい。これこそ将門が、「日本最大の怨霊」と呼ばれている所以である。
日本三大怨霊の菅原道真・将門・崇徳天皇。
私はこの怨霊が大好きなのである。
怨霊というと怖そうなイメージがあるが、実は生前までは快活だった人が多いのだ。そして、怨霊になるということは、それほど霊力が強くエネルギッシュだということでもある 。
死んでも死にきれないほどに成し遂げるべき偉大な志があり、怨霊となって蘇ったとも言いかえることもできる。
そして私が何よりも将門に惹かれるのが、その反骨精神だ。
ほかの三代怨霊にも共通することだが、救民のために朝廷(藤原氏)に逆らってまで反旗を翻したという、なかなかロックで破天荒な生きざまを見せてくれているのだ。
怨霊=英雄であることが多いのである。
怨霊ではなく英雄の霊、つまり英霊といっても良いかもしれない。たまたま逆らった相手が朝廷だったので、逆賊や怨霊などといった悪名を付けられているだけだ。
将門は荒ぶる豪傑というイメージがあるが、実際のところかなりのお人好しで優しい人物だったらしい。のちに怨霊と呼ばれる人物には、意外そういう人が多いのだ。
将門の関東に武家政権をつくるという理想は、やがて鎌倉幕府の源頼朝、そして江戸幕府の徳川家康にへと引き継がれることとなる。
なかでも徳川家康は、大都市・江戸をつくるにあたって将門の霊力を利用した。
この地図をみてほしい。
東京にある将門ゆかりの神社をつなぐと、見事に北斗七星のラインが現れるのである。将門が信仰していたのが妙見菩薩、そのシンボルが北斗七星なのだ。
それを知っていた徳川家康は、将門ゆかりの地をつなぐことにより呪術的な結界として、怨霊パワーを逆手にとって、江戸の守り神としたのである。
だが、これはハッキリいって「封印」である。将門への畏敬をもって供養したというより、利用するために封印したという側面のほうが大きいだろう。
これら鎧神社、水稲荷神社、築土神社、神田明神、将門の首塚、兜神社、鳥越神社。これらの北斗七星ラインは、将門の遺体が埋められた場所でもあるのだ。
将門も1000年以上ものあいだ封印され、怨霊だのとビビられて、さぞかし不憫である。
本当に彼を尊敬する者ならば、英霊・将門の封印を解除しようとするはずだ。
神仏を尊びて神仏に頼らずである。ご利益を求めようとするのではなく、こちらが神仏になにを与えられるのかが大切だ。
その結果、私は将門をリスペクトした曲をつくった(笑)
作詞:鬼将軍 作曲:一樹 / 鬼将軍
私の反骨精神や心境などを将門に代弁してもらった。
将門の生きざまを流れるままに吹く不死身の風にたとえた。「フロウ・ウィンド」と「不老の風」をかけているのだ。
歌詞はYouTubeの説明欄からみれる。
ジャケットは将門の家紋である九曜紋、そのなかに北斗七星をおいた。背景の草原は関東平野をイメージしたもの。
私は源氏、将門は平氏ではあるが、私の家紋は丸に九曜なので、将門の家紋とよく似ている。そこにも親近感が湧く(笑)
またこぼれ話だが、史上初めて日本刀をつくらせたのが将門らしい。日本刀が武士のシンボルだとすれば、将門こそファーストサムライかもしれない。
ロックスター将門。
このように将門の供養および封印解除の御用のひとつとして、オリジナル曲を音にのせた言霊としたわけだが、まだ私は将門の首塚にさえも実際に行ったことがない。
そういう意味では、まだ曲も完成していないも同然だ。
ということで4月23日、私は東京の地に降り立った(笑)
中三の修学旅行ぶりの東京である。
もちろん将門ゆかりの地をめぐって御用とした。
さて、次回の記事から、【東京御用2016】として東京紀行のことをレポートしていこう。