週刊僕の履歴書:第7章〜摂氏50度、中東の都ドバイへ! | 政治家・石田しょうご 公式ブログ

政治家・石田しょうご 公式ブログ

日々、島根県内を歩き続けながら感じたこと、疑問に思ったことを石田しょうごが率直に綴るブログ


石田しょうごのブログ


ドバイは・・・結局、ひとりぼっちで通過点に過ぎないの。常に人が来ては去って行く。関係を維持する事が難しいところなの ー Ameera Al Hakawati、ベストセラー作家

06年秋、関空発エミレーツ航空EK317でドバイ国際空港に到着した僕は、冷房の効きすぎている空港の中と、夜中にも関わらず40度を超える外気の寒暖 差に面食らった。中東は砂漠が多く乾燥していると思われる方も多いかもしれないが、ドバイはアラビア湾に面した亜熱帯気候の土地であり、雨は降らずとも湿度は100%に達する。一歩外に足を踏み出した瞬間に眼鏡をかけた視界は真っ白の幕に覆われた。

ドバイ総領事館のアブダッラー職員に迎えられ、空港から市内へ車で移動した。日本からドバイに到着する飛行機は通常朝5時台の到着予定である。しかし、夏 場は貿易風に乗って1~2時間早く到着する。この日も3時半頃着陸、入国手続き、バゲージクレイムを抜けて外に飛び出し、車でドバイ市内を通ってホテルに 着いたのは4時半頃だった。

空港からドバイ中心街に行く途中、『シェイク・ザイード通り』というドバイの初代首長の名前を冠した幹線通りを走った。シェイク・ザイード通りを境に、モーゼの葦の海の奇跡のごとく左右に櫛比する瀟洒なビル群に目を奪われた。

「これがドバイか・・・。すげー」

06年はヤシの木の形を模した人工リゾートアイランド『パーム・ジュメイラ』の宅地分譲が始まり、828メートルで世界一の高さを誇るが300メートルに 達するかの頃、世界各地からの観光客数は年間550万に達した。日本からの観光客も前年と比べ30%も増加したことから、日本での認知と人気が急激に高 まっていた頃だった。

ドバイの街中を見て一瞬で一番いい時期に来たことを感じ取った。当時20代の僕は80年代の日本のバブルを実体験としては知らない。毎日新しい道路が出 来、新しく独創的な建物が立つ、勢いを肌で感じられる程街中が活気に満ちて、皆がこの繁栄がずっと続くと自信を持っている。

ワクワクせずにはいられなかった。ここでしばらく暮らす事が出来る。世界で一番勢いのある街の成長を直に見る事が出来る。そこに暮らす人たちのマインドに触れ、生活が変わる瞬間に立ち会うことができる。こんなに楽しみなことはなかった。

大学を卒業し、米国から一度帰国した。ドバイに行くまでの間、国際機関でインターンをしながら、日本の最高学府の大学院の授業にちょこちょこ出席させても らい勉強した。ティッシュ配りやフリーペーパー配りのバイトをし生活費を稼いだ。もう一度海外の大学機関に博士レベルで戻りたいと思いながら勉強をしてい つつ、しかし、一方で働かなければいけないとの思いや、思い通りにいかずどこかうまくいかない中でくすぶった感情だけが高まり続けた。正直、一刻も早く外 に出たいとずっと思っていた。

そんな中でドバイで働く機会を得た。学生時代に歩き回った地中海沿岸の中東とは違い、天然資源が豊富なアラビア湾沿岸諸国の中で、交易と観光、新しい発想でのし上がってきたドバイ。

『世界一にならなければいけない。世界二位は誰も覚えていない。ドバイが目指すのはそこだ』ドバイ首長の言葉はとても刺激的だった。いま、ドバイで僕の新しい生活が始まったのだった。