「戦争の実話」今日は八月十五日 | 「書家の目線はこう見てる」書家・田坂州代(たさかくによ)

「書家の目線はこう見てる」書家・田坂州代(たさかくによ)

手書きの文字はもちろん、ロゴ、絵、写真、その他なんでも、ついつい目がいってしまうのは書家の性分。「書家の目線はこう見てる」とタネあかし。

敗戦から70回目の8月15日。

そう、まだたった70年しか経っていないのに、
辛い、割に合わない莫大な代償を費やして戦争の虚しさを学習したはずなのに、
はやくも忘れかかっている愚かさ

正午には黙祷致しました。

 

さる8月9日(長崎に原爆が落とされた日でもあります)に狛江市で
「狛江市終戦70周年平和祈念事業 今、大切にしたいこと」が開催され、


その中で「平和のひとこと」入選の表彰状を頂戴しました。


狛江市長から表彰状を


女優の紺野美沙子さんからは記念の「ひとこと集」
(紺野さんと小池邦夫さんの直筆サイン入り)を手渡して下さいました。

1214作品の応募の中から、狛江市が空襲の被害を受けた5月25日にちなみ
25の作品が選出されました。田坂の「ひとこと」は

しんどくても
「戦争はいやだ」
「いやなものはいやだ」と
いいつづける勇気
(50文字内規定)

これは、昨今の為政者の浅薄な言葉と軽卒な行動への私自身の憤りと、
2013年7月13日に幕張メッセの音楽イベントの講演会で、
瀬戸内寂聴さんが、20代30代の聴衆が多く集う会場で
お話になったメッセージにその場にいた私も触発されて書いたものです。

寂聴さんは
「今の状況は、軍靴の音が響き始めた戦前と良く似ている。
若いあなたがたが、『戦争はいやだ、いやなものはいやだ』と
正直に言わなくてはダメ」
とおっしゃいました。

「狛江市終戦70周年平和祈念事業 今、大切にしたいこと」
当日のプログラムは
・地元の佐藤安正さんによる紙芝居「戦争と狛江の子供達」
・紺野美沙子さんがピアノと共演で
 大蔵宏之作「朝の光」朗読
(戦争がなければ気が触れずに済んだ母を息子の目線から描いた作品)
・地元の小学生たちによる、和太鼓演奏や合唱
・絵手紙作家の小池邦夫さんの講演
と充実した内容でした。

ロビーでは平和の絵手紙展が
 
田坂も御飯の絵手紙を出品



【身近な戦争の実態】

以下、やや長文ですみませんが、
はじめて公にするつらい話も含め
今こそ言わなくては、という気持で書きました。

戦争体験者(田坂の父母)のリアルな話です。

父(1915生まれ。二二六事件のとき20歳。
生きていれば今年100歳。
祖父といったほうがよいほど歳が離れているので、
幼い頃一緒に外出するとお店の人から
「おじいちゃまと一緒にお出かけ、いいわねえ」
と言われてました。

父は徴兵されて鉄砲で撃たれ、
あげくに終戦直後(8/17)広島で二次被爆しました。
8/17付で広島の連隊に2度目の招集を受けていたためです。
8/15に玉音放送があったとはいうものの、
まだ世の中混乱していましたから「行かなきゃまずい」と、
わざわざ広島に行ってしまったのです。
広島の焼け野原を、死の灰が30センチも積もる中に
足をずぼずぼもぐらせながら
死屍累々の光景の中を歩いたそうです。

そんな体験を持つ父から直接聞いた話です。

軍隊で処刑場面を見させられたとき。

「人間の首を刀で斬ると、頭がガクッと
前へたおれて、血がピューッと吹き上がる」

「軍隊では自殺する兵隊も多かった」

私が生前の父の言葉の中で最も衝撃を受けた言葉は

「お父さんは日本人は食べなかったよ」

です。

本来ボーダーであるべき
「人間を口にしたか否か」ではなく
日本人かどうかをボーダーにしなければならなかったのです。
そうしないと父は自分で自分を保てなかったのでしょう。

私の細胞も人肉でできているのです。

戦地で兵士の同僚同士が泣きながら死んだ仲間の肉を裂き
「ごめんよ、ごめんよ、お前の肉を分けてもらうよ」
といいつつ喰らう光景もあったそうです。

父が撃たれたときの話。
敵隊と味方の隊と対峙して互いに激しい撃ち合いの場面。

「でも互いに素人だから、数は射つけど、
ろくすっぽ当りゃしないんだ。
そのうち脇腹がなんだか冷たいなあと思って
手でさわってみたら真っ赤な血、
見たとたん気を失って気がついたら病院だった」

人間、極限の緊張状態にあると、
鉄砲で撃たれても気がつかなくなるのだ
と知りました。

そんな異常な状態を強いるのが戦争の実態です。

しかも、父の言葉にもあるように
撃ち合いをさせられているのはどちらも「素人」です。
撃つ人も、撃たれる人も、うむをいわさず招集され、鉄砲をにぎらされた「市井の人」です。
平時は「人殺しなんてとんでもない」と思っている「一般人」です。

撃たれたまま見捨てられずに病院に連れていってもらえた
父はまだ幸せなほうだったかもしれません。
背中に銃弾が抜けた貫通銃創だったことも、
体内に銃弾が留まる盲管銃創よりは幸いだったといえます。
(私の世代で、医療や警察の関係者でもなく、
貫通銃創だの盲管銃創だのという単語を
身近に知っている人も少ないでしょう)

ここで彼が死んでいると 今、私は存在しません。

被害者は戦地だけではありません。

母からもこんな話をききました。
幼い彼女は、都会とちがい空襲や食糧事情もまだいくぶんマシな
田舎に居たにもかかわらず、
毎晩続けて下記のような夢を見たというのです。

「鬼畜米英に殺される前にみんなで死にましょう。
次はあなたの順番ですよ」

そういって、カミソリとちりとりを持った当番のおばさんが来るの。
おばさんのちりとりの中には
先に切った生首がいくつもごろごろ入ってるの。
もう、恐くて恐くて

こんな夢を3週間も毎晩繰り返し見たというのです。

これって今なら立派なノイローゼですよね。
当時の世の中の空気が、田舎の子供にまで
こんな悪夢を見せていたのです。
目に見える身体の傷でなくとも、
心に深い傷を負わされたのです。

幼い子供がこんな目に遭う世の中が
決していい世の中であるはずがないのです。



・・・この両親から生まれた私には
戦争と原爆に反対する義務があるのです。