私には歳が離れた3人の子どもがいる。
3人とも元気で活発でまじめな子だったと思っている。
その子たちの小学校時代の計算力には、ちょっとした時代背景があるような気がしてならない。
一人目は1990年前後、二人目は1995年前後、三人目は2000年前後に小学生高学年を過ごした。
一人目の長男は、計算ドリルが毎日のように宿題に出ていた。
書き込むものではなく、薄い大福帳のようなもので、ノートに問題を書いて答えを書く形式。
宿題用の計算ノートを別に持っていたような気がする。
そして、繰り返し何度も同じページの計算をやらせられる。
1ページやり終えたらシールがもらえて、何回か達成したら金ピカシールをもらえたようだった。
結果、長男は計算が速くなったと思う。
二人目の娘も長男のような宿題方式だった気がするが、
私の関心は2番目とあって薄らいでいるようで、どのように宿題をしていたのかは定かではない。
ただ、長男の時のように金ピカシールをもらえるだのとは騒いでいなかった。
それは担任の方針にもよるが、繰り返しドリルはかなりゆるいものだったように思う。
娘はまあ計算に困ることはなかったように思うが、
思い出に残っているのは、学校の宿題ではなく、駅の切符だ。
あの頃は単票の切符。下に4桁の番号が印字されていて、一枚一枚違っていた。
電車に乗る度に、切符の4桁の数字を
足したり引いたり、掛けたり割ったりして、合計を0にするというもの。
親の切符も覗いて、どちらが早く0にするかという競争を毎回熱心にやっていた。
私は度々負けてしまい、娘の頭の柔軟さ・回転の速さをほめてあげていた。
三人目の次男の時に大きな変化があった。
「総合的な学習の時間」というものが入り込んできて、
「詰め込み教育」はよくない、「ゆとり教育」だと騒ぎ始めた。
土曜日が完全に休業日になったのもこの頃だ。
そして、学校では行事やイベントに力を入れ始め、グループ活動だ、発表活動だと騒ぎ立て、
授業参観に行っても集団の見世物的なイベント授業、話し合い活動、協力活動ばかり。
個人面談でもそういう集団への関わり方を熱く語られ、リーダー的な存在とくすぐられて終わり。
で、ある時気がついた。
宿題が少ない!お兄ちゃんやお姉ちゃんがやっていた繰り返しドリルがない。
親として不安はあったが、学校で宿題に出されない限りやろうとしないのは当然のこと。
まあ、学校の算数の授業はついていっているみたいだから大丈夫だろうと、気楽に思っていた。
その次男が中学生の頃、生活場面の簡単な計算を暗算でしようとしない。
必ず紙を持ち出して筆算をするのだ。
その筆算は正確でまあまあ速いのだが・・・
家族で話をしていても、計算部分になるとふと頭の回転が止まるようなのだ。
そして、大人になったらとうとう携帯を出して電卓機能を使って計算している。
簡単な計算なのになあと思うこともしばしばだ。
このようにわが子三人の家庭から見る学校教育の様子が、10年間で様変わりしているのを感じる。
私はその頃盲学校勤務だったので、一般校の教育内容はほとんどわからずにいた。
だが、3番目の次男が経験した2000年前後の「ゆとり教育」や「総合的な学習の時間」導入が、
本当に良かったのか、今でも疑問に思っている。
成人した三人の子どもを比べるわけではないが、
何を学校で培ってもらったのか?基礎学力とは何か?生きる力とは何か?
それらは学校だけでなく、家庭環境や地域性、交友関係などあらゆる要素が絡まって
人格形成されてくるのだとは思うが、
小学校時代に期待する「基礎学力」というものは、本当に時代背景に翻弄されていると改めて思う。