エンジェル・ウォーズ | 空想俳人日記

エンジェル・ウォーズ

 まいった! もう、予告では、「こりゃあ、アメリカ版のセーラームーンかいな」くらいにしか思っておらず、それでも「エンジェル・ウォーズ」なるタイトルから受ける印象でもよろしいから、単純に「月にかわってお仕置きよ」が観られればいいかあ、そんな気持ちで劇場に行ったのですが。
 いや、まじに、まいりました。というのも、これは、私にとっては、あの大好きな監督テリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」に匹敵する問題作じゃないですか。しかも、そこにですよ、スタンリー・キューブリック張りの「2001年宇宙の旅」やらボブ・フォッシー監督の「キャバレー」、そしてグリーム・クリフォード監督の「女優フランシス」に、タランティーノの「パルプ・フィクション」やロバート・ロドリゲスの「シン・シティ」。勿論、そこにはセーラームーンや日本の戦隊もの、さらには手塚治虫の世界観までも。
 もう、てんこもりでありながら、果たして、この世で生きると言うことは・・・。それを最後に突きつけられる。けっして、よかったよかった、めでたしめでたし、ではなく、私たちは、どう生きればいいのか、問題だけが後味に残り、本作が評論家からは概ね否定的なレビューを受けたのは分かる気がする。評論家は、分からない作品を否定したがるものなのだ。
「テレビゲーム型のアンエロティックでアンスリリングなエロティック・スリラーである」とか、「不思議なトーテムを探すクエスト、明確に画定されたレベル、ノンストップのアクションの数々は、冗長なテレビゲームや精巧なトレーラーよりも非映画的である」とか。批評家たちは、自分の批評家として語りえるべき一本の物差ししか持たないが故に、そんなことを抜かしている。
 そうではないのだ。この映画を、何かの物差しで観てはいけない。ここには物差しはない。あるとすれば、これまでの自分の物差しを捨てねば理解に苦しむ、ということだ。
 もし物差しが欲しいのであれば、主人公のベイビードール(エミリー・ブラウニング)なのかスイートピー(アビー・コーニッシュ)なのか、はたまたロケット(ジェナ・マローン)かブロンディ(ヴァネッサ・ハジェンズ)かアンバー(ジェイミー・チャン)なのか、自分なら誰なのかを探すべきだろう。そこから、この物語がその視点で見えてくる。
 もちろん、主人公のベイビードールの視点でもいいのかもしれない。しかし、役中で彼女がモノローグするように、このお話の主人公は誰なのか、自分ではないのではないのか、そういうふうに見えてくる。そう、初めは脱走に猛反対だったが、最後には、ベイビードールの犠牲心により愛すべき親元に帰らんとするスイートピーなのかもしれない。
 ここでも、私たちは、何処までが夢で何処からが現実で、何処までが自分で何処からが他人なのか分からなくなってくる。その解決の糸口には程遠いが重要な存在は、スコット・グレン演じるワイズマンであり賢者でありバスの運転手である。彼は、絶えず、
「そうそう、もう一つだけ言っておこう」と必ず付け足しを言う。例えば、「ママを起こすなよ」とか。これが意味ありげで、実は、また意味がないのかもしれない。意味がないのではなく、他の者たちと次元が異なるのだ。生きることの次元が。ある瑣末な物語に嵌らない。しかし、彼は意味がなくとも、次元を異にしていても、案内人でもあるのだ。世の中とは、そういうものかもしれない。だから、バスの運転手として、スイートピーを帰還させる手立てを取る存在として登場する。しかし、そこには、主人公のベイビードールのための救済の余地は全くない。
 主人公のはずのベイビードールが、5人の中でスイートピーとともに、二人残るが、最後に残ったのはベイビードールではない。彼女がどうなったのか、分からない。
 こんな映画だから、批評家には分からない。そうそう原題の「Sucker Punch」、「不意の一発」「だまし討ち」は、そんな批評家に食らわしているのかもしれない。

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