ブロークン | 空想俳人日記

ブロークン

鏡よ鏡 もうひとりの そこに自分


 ファッション・フォトグラファーとして活躍するショーン・エリスが2004年に手掛けてその年のアカデミー賞にもノミネートされた短編作品を長編化した異色のロマンティック・ストーリー、それが「フローズン・タイム」。原題「CASHBACK」、これに痛く感銘したものだから、彼ショーン・エリスの長編第2作ということで、中身も知らずに、予告も観ることなく、鑑賞させていただいた。
 なるほど、「鏡の国のアリス」かあ。ルイス・キャロルも思い出し、さらには、日本の孤高のSF作家、「マイナスゼロ」で有名な広瀬正を思い出した。鏡の向こうに映る自分。一人称である自分と、そこに映る、さも客観視されている、もう一人の自分。
 前作の、画家志望の主人公の恋と日常を、コミカルに、ちょっとエッチぽく、描いたドラマに対し、サイコ・サスペンス・ホラーって言えばいいのかな、これ。正直言って、前作の方のが好きだけど、今回の作品も、さすがフォトグラファーである彼の、ユニークな映像世界が展開していく。
 実は、小生、鏡を見ることがキライである。何故なら、自分が脳内で描いている自分とそうでない鏡の向こうの自分とを摺り合わせすることが苦手だからだ。普通は、見た目を気にする男性や、それ以上に女性は、鏡をお手本にして自分を描きなおしたりする。単純な話、お化粧である。しかし、随分以前だけれど、ある女性が言っていた。一番キライなことは、鏡に映る自分を見ることであると。彼女は言っていた、「人にどう見られているかを確認するために、自分で鏡を覗くことは、自分を自分でなくする。自分を他者にしてしまう」と。
 その言葉を、今回の映画で急に思い出させてくれた。そして、この映画の主人公が直面する、もう一人の自分を、おそらく鏡を嫌った彼女は、既に経験していたのではないか、と。小生も鏡を見るのがキライだ、と言った。だから、この映画で出会う、もう一人の自分が自分を襲う、あるいは自分がもう一人の自分を襲う、それを回避したがっていることでもある、そう確信した。
 ここまでの真意、分かりますか? 分かれば、この映画が極めて面白い作品であることも分かるのです。でも、いわゆるサイコ・サスペンス・ホラー仕立ての映画の欠点は、ネタバレしてはおしまいで、さらに、一度観てしまったら、その衝撃は二度目は殆ど壊滅する。だから、この作品を言及するのは、ご法度かもしれない。予告も前触れ知識もなしに観るほうがよろしい。
 でもね、公式サイトでも示唆するように、例えば「内臓逆位」とか「カプグラ症候群(自分の近しい人間を替え玉と思って信じられなくなる)」とかなんかは、ちょっと気にしておいてもいい。さらには、主人公ジーナが交通事故を起こすクルマのナンバーの左右対称性。また、事故後に彼女が傷を負う目の辺り、その傷は右目辺りなの、左目辺りなの? きっと監督が拘ったであろう、赤い色・・・。
 単に主人公の精神の病かと思いきや、ジーナの父親をはじめ、周りの者までも・・・。それを、単に闖入者と思うのか、この現代社会が生んだ疎外の構図の中で生まれた全ての人に感染する病なのか、それは鑑賞者の想いに委ねられる。
 それにしても、レナ・ヘディ演じるジーナ以上に、ミシェル・ダンカン演じるケイトの別なる自身による殺戮は色っぽくも怖かった。たぶん、ジーナが、あることを気づいている人であれば、彼女は気づくことなく、もう一人の自分に挿げ代わるんだろうな、それが分かると、私たちは、この映画で、鏡を見ることが怖くなるはず。そう、鏡の向こうにいる自分とは、同じ自分であると思いながらも、そうではない自分を創り上げねばならない、そのためには、ここにいる自分を抹殺してでも築きあげねばならない、そういう人格って、自分という一人称に対し、素直な役割を一生演じてくれるのだろうか、そう考えざるえない、そう自分を疑わざるをえない、そんな映画である。
 フローズンからブロークンへ。きっと次は・・・。