まぼろしの邪馬台国 | 空想俳人日記

まぼろしの邪馬台国

まぼろしの 探偵たちに 道ありき



 久しぶりの劇場鑑賞は「まぼろしの邪馬台国」。これ、前に劇場予告で、あるワンシーンがお気に入り、それで「観よ」と思っていた。目の見えない宮崎康平(竹中直人)が畦道を突っ走りながら道をそれて脇へ転がるシーン。妻の和子(吉永小百合)が慌てて駆け寄る。
 あとから本編を観れば、決して取り上げるほどのこともない、なんでもないワンシーン。でも、予告の中で私に語ってくれたのは、おそらく、この映画が見方によれば、なんでもない奇を衒うような作品ではないであろうけれども、島原鉄道の重役として島原の発展に尽くしながら、昭和40年代初頭に発表した「まぼろしの邪馬台国」で邪馬台国論争に一石を投じ、日本中に邪馬台国ブームを巻き起こした全盲の郷土史研究家の宮崎康平を竹中直人が演じ、彼とと二人三脚で歩む心身ともの支えとなる妻の和子を吉永小百合が演じる必然性を感じたからに違いない。
 さらには、それらをなんでもなく撮りながら時おり美しい静止画で物語を引き締めるに留めた監督の堤幸彦の優しさ、そして穏やかにも心を内面から揺さぶる楽曲に長けた大島ミチルの音楽、それらも至極当たり前のようにお膳立てされたというか、そんな映画に思えた。
 実際は、そのシーンなんかよりも、もっと二人の波瀾万丈の人生を象徴するシーンはいくつもあるわけだし、宮崎康平の破天荒ぶりを浮き彫りにするためのキャスティングも用意されている。 島原鉄道役員関係の石橋蓮司やベンガルは、まさしく適役。そんな中、有明銀行頭取の江坂役の江守徹は、日頃ならもっと自らのキャラを押し出しそうなところを敢えて抑えた演技が山葵のように引き締めに効果的。
 一方、妻の和子においては、その生い立ちの中で父親に平田満、母親に麻生祐未が配されているのもいい。宮崎を支えながらも単に内助の功だけではない、肩を並べて歩くべき伴侶としてしっかりとした考え方が育まれた環境であるかが見て取れる。ちなみに、ここで和子の幼少時代を演じた子役の宮崎香蓮は、宮崎康平の実際の孫だそうな。
 私にとって、邪馬台国とは、かつて畿内にあってくれなくては困る存在だった。いや、別にそれが自分の人生に関わるとか、そういう大きな問題ではなかったが、どうしても朝廷の歴史の流れから中心は畿内であって欲しかった。ところが、畿内説に対し九州説という二大仮説が私を悩ませた。そういえば、宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」の発表が1967年だから、これにより邪馬台国論争が「邪馬台国ブーム」となり、日本人一般にまで波及した後に、私は学校で、二大仮説を知ったわけだ。「魏志倭人伝」が有力な手がかりになるわけだが、それと「日本書紀」や「古事記」? そんなもの素人の自分に紐解けようもない。しかし、いずれにしても日々の肥やしにはならぬ、まぼろし探偵として奔走してた宮崎夫婦の影響が既にその時にあったわけだ。
 この映画で、さらに私は、宮崎康平自身に対して、デジャヴュを感じたのだ。それは、彼が子どもをあやす時に歌っていた子守唄。離婚後に一人で子どもを育てた際に歌って聞かせていた子守唄は当初島原地方で歌い継がれていた子守唄がベースとなっているとされていたが、その後、歌詞も曲も宮崎の創作であることが判明したそうな。この話を私は、以前、誰かから聞いていた。確か、それは今は亡き宮崎康平の妻、和子自身からではなかったか。
 ネットで辿ってみると・・・、「2001/7/1放送 幻の邪馬台国伝説! 夫婦で辿った最古の道・盲目の作家宮崎康平・和子」。どうやら、それはテレビ番組だったようだ。2002年で番組は打ち切りになっているが、日本テレビの「知ってるつもり?!」ではなかろうか。これだ、という確信があるわけではないが、「島原の子守唄」が宮崎康平作詞・作曲であることは知っていた。「オロロンバイ」で記憶に残っている。
 さて、宮崎康平には先妻がいた。実は、和子が後妻に入った後も、先妻とは戸籍上では結構長い間夫婦だったらしい。この映画でもその件がある。そして、先妻と後妻の出会い。先妻である佐野明子役を余貴美子が演じている。ここでは多くを語らないが、吉永小百合と余貴美子の一騎打ちは美しい。どんな逆境で苦労した人でも、人間は、ここまでも美しく優しく心を開けるのだな、そう思わせてくれた。たとえ、それが映画の上でのきれいごと、虚構のワンシーンだとしても。たとえ創られた出会いのシーンでもいいではないか。それを打ち消したら世の中の全てのフィクションは泡と化してしまう。
 そう、私たちはフィクションという世界を知っている。だからこそ、私たちは、こうして宮崎康平と和子という夫婦の人生に出会えることが出来るのだ。もし一切の虚構が許されない世界しかありえないのいであれば、私たちに多くの感動をもたらすことは不可能ではなかろうか。そして、その感動を五感全てに訴えて可能にしてくれるもの、それが映画なのではなかろうか。私も「邪馬台国」を追いかけたくなってきた。一人で、か? 脇を見ると空席、そこには今の私の歩行を支えてくれる杖しかなかった。余計に卑弥呼に会いたくなってきた。