歩いても 歩いても | 空想俳人日記

歩いても 歩いても

歩いても 走ったとしても いつか立ち尽くす



 劇中の中で、いしだあゆみの「ブルーライト横浜」のレコードをかけるシーンがある。あっ、そうか。ここから来ているの? 「歩いても 歩いても 小舟のように 私は揺れて 揺れてあなたの腕の中」、で、その腕の中がよかったのかよくなかったのか、そりゃ人それぞれだと思うけど、かつてを思い出してどう思おうが、どんなに人生の熟練になっても、歩いても歩いても小舟のように生き続けるしかない、それが私ら人間なんだろうな、改めてそう思わさせられる映画やった。
 一応、主人公は横山良多を演じる阿部寛であり、子持ち再婚者なる良多の妻、ゆかりを演じる夏川結衣かもしれない。でも、 母親の横山とし子役の樹木希林だって父親の横山恭平役の原田芳雄だって主人公だし、良多の姉、ちなみ役のYOUだって主人公である。というか、ここには主人公なる通常の映画のキャスティングはない、そう思う。是枝裕和監督作品ならではの作りである。
 私たちは日常のしがらみの中で生きていることで、自分自身が何者であることかを忘れている、なあんてお話はあるけれど、この映画は、むしろ逆だ。所詮自分も含めて、人間そのものも人間関係も宙ぶらりんで確定できるものなんかないかもしれない。ただ、それを日常というしがらみが酸いも甘いも辛いもひっくるめて首の皮一枚かもしれないがなかなか切ることのできない?がりを作っている、そういうふうにも思わさせてくれる。つまり、真の自分とは、なんてものが日常の裏の奥深くに潜んでいる、なあんてありそでなさそな真実が、あってほしいであろう深い真実が、なんのことはない独りよがりなもので、日常の他愛もない、どうでもいいと思われる料理をはさんでの戯言が、その戯言がなければ奥も糞もないのだ、というふうにも思えてくる。
 そして、ただあるのは、いつも「ちょっとだけ間にあわない」ことの繰り返しの中で、過去を思い明日を生きようとすることによる今の自分と周りがあるだけだ、と思うのだ。
 こうしたお話を見て、自分の日常にもある癖して、ちょっと間に合わない、ずれた人々の日常に、観客としてくすくすと笑えるのは、自分自身が思い当たりながらも、もっとこうすればいいのに、そう高みの見物になっているからなのである。しかし、そう思いながらも、ちょっと待て、他人事笑いをしている自分も五十歩百歩だと思っただけで、自分もつまらない人間だな、そう思わさせてくれもする。そして、そう思えたら、しめたもので、逆に他愛もない、お寿司を作ったり、とうもろこしのかきあげを作ったりすることが、愛おしくも大切なことに思えてくるのである。
 揺れてあなたの腕の中に陥ったことに人生を後悔している人がいるとすれば、この映画でひょっとすると半分は救われるんじゃないだろうか。あとの半分の人は、この映画に無頓着に、後悔をバネにして絶えず無い物ねだりしながら前向きにチャレンジして生きていくのだろう。いつも不平不満を根に持ちながら。
 誰が言ったか知らないが、こんなコトバがある。歩くのが嫌なら走るか立ち止まるしかない。