パンズ・ラビリンス | 空想俳人日記

パンズ・ラビリンス

尾てい骨 頭蓋骨から 心臓へ 



 なんだか久しぶりです、ナメクジに尾てい骨をむじむじ齧られるような感触の映画を観たのは。しかも、ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」のときのような、頭蓋骨の内側から除夜の鐘をくわんくわん鳴らされた驚愕も味わいました。ちょっとぞくぞく悪寒も走りました。
 これまで「不思議の国のアリス」もどきの作品がいろいろありましたが、こんなに現実と幻想の表裏一体を見せられたアリス的世界、「鏡の国のアリス」ともまったく味わいが違う、そのぬらぬらのようなものは、おぞましくも、度肝を潰されることなくちくちく痛めつけられるほどにステキです。ここまでくると、作品の良し悪しなどを語ることがおこがましくなりますね。
 主人公の名オフェリアに、シェイクスピアの悲劇「ハムレット」のオフィーリアを思い出します。度重なる悲しみのあまり狂い、やがて溺死するオフィーリア。ここでのオフェリアは、地獄のような現実に悲しむことよりも、むしろ無表情ですね。その現実をひっくり返したパンとニンフのいる世界を空想することで。
 さて地獄のような現実の舞台は、スペイン内戦後ですね。私はスペイン内戦に余り詳しくないのでいけませんが、画家のピカソによるゲルニカ空爆をテーマにした大作「ゲルニカ」は有名ですね。ちょっと調べてみました。
 スペインでは、1931年国民の支持を失った王制が倒れ、政局は混乱。36年に選挙で人民戦線派が勝利し内閣が組織されましたが、旧王党派や地主層などの保守派がフランコを中心に反乱を起こしたのです。これが始まり。さらに、内戦をイギリス・フランスが不干渉の立場をとる中、当時ファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持、あたかも第二次世界大戦の前哨戦のような様相となりました。そして、内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して、激しい弾圧を加えた、そんな時代背景のようです。そういう意味でも軍のビダル大尉の下に潜り込んでいた人民戦線派の女性メルセデスは、重要な役柄と言えましょう。
 また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つがメキシコです。ラサロ・カルデナス政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れたそうです。人民戦線政府も亡命政府としてメキシコに76年まで存続したんですね。ゆえに、亡命者がメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きかったと言われています。
 こうして見ると、この映画がメキシコとスペイン合作であり、メキシコ出身のギレルモ・デル・トロ監督がスペイン内戦後を舞台に描いた理由も見えてきました。けれど、何も、こうしたスペインの時代背景を知らなければ、この映画の真髄が伝わってはこないのかというと、そんなことはありません。スペイン内戦直後の過酷な現実は、他の国でも他の時代でも、過酷な現実として置き換えることは可能なのです。
 そうした現実の中で、オフェリアは、ごく一般的なスペイン女性である母親カルメンに気を配りながらも、一方、オフェリアのよき理解者メルセデスを慕います。でも、それ以上に、彼女にとって、もっと素晴らしき世界の仲間たちとなるのが、パンやニンフであり、あの手ひらに目を持つベイルマンもそうなんでしょうね。
 彼女が魔法の王国のプリンセスであることへの三つの試練。この試練はおそらく彼女にとって過酷な現実の痛みを逆に忘れさせてくれる手応えのある試練です。何故なら、現実のほうには、何の手応え手応えもありません。現実が地獄であるとすれば、彼女にとっての魔法の王国は、天国であり、極楽であるかもしれない、私たちにそうも思わせます。そう思ってもいいのかもしれません。でも、断言する必要はないでしょう。
 試練で思い出します。芥川龍之介の小説「杜子春」を。最後の試練で「おかあさん」と叫んでしまう
杜子春と、オフェリアが弟に対しての判断。また、試練の途中では、様々な道具を手に入れるオフェリア。安部公房の初期の小説「壁」「魔法のチョーク」「鍵」、そんな一連の短編を思い起こします。もちろんギレルモ監督がこれらに精通しているわけはなかろうと思いますが、優れた創造者は必ず類稀な想像力を有しています。そして、その作品は、作品の良し悪しなど語らせまいとする力を持っていますね。この映画も、だから、そうなんですね。
 この映画のプロモーション用のセールス・キャッチ、「だから少女は幻想の国で永遠の幸せを探した」。いつもなら、映画ちゃんと観て書きなさいよ、そう叫ぶことが多いのですが、このキャッチフレーズ、ステキです。この「だから」の前を私たちは十分この映画で味わうことで、鑑賞後にこのキャッチにもう一度再会して、涙ぐむわけです。「彼女の永遠、私は見つけた」そういう人もいるでしょう。「永遠なんて、どこにもない」そういう人もいるでしょう。でも、彼女は「永遠の幸せを探した」んですね。
 彼女の母親、ごく普通の母親カルメンの彼女を諭す「いつまでも御伽噺ばかり読んでいないで」というコトバが空を舞います。この世の中には、別の世界ではプリンスやプリンセスかもしれない数多くの子どもたちが、小さい命をどんどん落としている、そう思うと、母親カルメンのコトバまでが残酷に思えてきます。空を切るだけじゃなく、人の心も切りつけているのではないか、と。
 こうして作品を再度噛み締めながら書いていると、観終わった直後よりも、より一層目頭がじんじん熱くなり、心臓がとくとく大きな音を立てている自分に、また驚いています。この時代に生まれ、ここまで生きてきたことに、この映画への想いを通して感謝します。