EUREKA ユリイカ | 空想俳人日記

EUREKA ユリイカ

分かっても なおさら人々 心逝く 



 ユリイカは私にとってはもっとも身近なのは青土社発行の文芸雑誌。「わかった」を意味する"Eureka"から名づけられた。詩および批評を中心に、文学、思想などを広く扱う芸術総合誌である。学生のころ、よく読んだ。作家の特集やら芸術運動の特集やら、それまではよく分からないものも、この雑誌のおかげで「わかった!」などと納得させていただいていた。
 この映画も、どこかで「分かった!」と思わさせていただける作品なんだろな、そう思って見続けてた。しかしだ、あまりにも淡々としていて、激情的な場面でも、その土壇場は見えない。遠くから、単に日常茶飯事の中の瑣末的な様相で観させられるだけだ。本当に日常的な視界。劇的なショットだけを摘んで編集したものではない。単に長回しワンショットシーン、感情移入のしづらさよ。さらには、音も届いてこない。軽いピストルの矮小な音。それに比べて、鬱陶しいほどの蝉の声、咳の音。肝心の音や声は不必要かつ効果的な掻き消され方。
 そんなドキュメンタリータッチに似ながらも、それにもならぬ記録作品っぽさの風体のある場面で、意外な場面、私に突然「ユリイカ!」と言わさせしめたシーン、その納得は天からの降臨の如く舞い降りた。その納得を境に、この世が極めて宙ぶらりんなものに映り始めた。
 ごく普通に、安定的に生きるということは、地にしっかり足をつけて生きていくことなどではない。例えば理想がプラスであるとすれば、地に足をつけるということはマイナスなのであり、その間のプラスマイナスゼロあたりで、ゆらゆらと不安定かつ不確実な状態でありながら、ある均衡を保って曖昧な宙ぶらりんを成し遂げていくこと。それが世の中の普通に生きていくことなのだ。
 ここに登場するのは、みんなごくごく普通に生きていこうとしている人たちだ。しかし、ある事件をきっかけに、その事件で殺されずになんとか生き延びることができた連中が普通の人々から疎んじられる。西鉄バスジャック事件。そういえば、現実にもあったと思うのだが。
 この映画では、犯人は警察によって最後には射抜かれる。その前に何人もが犯人によって殺害されているが。そんな状況で、運転手と学生である兄妹だけが生き延びる。なんでもないようでありながら、生き延びた3人にとっては、大きな人生の揺らぎと転機になる事件。それがなかった、その後の彼らは、あいかわらず何でもない毎日を送っていたはずだろう。
 まず運転手は、二年余り雲隠れ状態で家を飛び出す。その間に、兄妹の家族は、母親が家を飛び出し(男を作り)、父親がこの世を去る。その後、学校へも行かずに、まるで残された家を庵の如く隠遁生活に入る。そうこうするうちに戻ってきた運転手。でも、実社会との関わりがうまく普通に保てない。
 彼らを取り巻く人々の言い分は分からなくもない。運転手役の役所に対して離婚届をぶつける妻のまるまるの言い分もよく分かる。自分勝手なやつ、とも批判する。しかし、本当にそうだろうか。彼にせよ、両親のいない家に閉じこもる兄妹にせよ、本当に責められるべき人間なのか。おかしいのは、これまで、ともに普通に生きてきたはずなのに、あっという間に普通では済まされない、そんな状況にもなっていることに気づく。
 それがもっとも理解できた、「ユーリカ」なる言の葉の根底は、青山真治監督がヴィム・ヴェンダース監督の影響を受けているともいえるロードムービーたる後半、役所広司演じる沢井真にとっての2台目のバスによる旅の中。ともに旅するのは、再生を願うべき兄妹、宮崎あおい演じる田村梢、宮崎将演じる田村直樹。そして、何故かきっかけがよくは分からない(同じような体験をしたらしい)が、彼らの従兄である斉藤陽一郎演じる秋彦。通り魔の犯行と思われる連続殺人事件が直樹であることを確証できた沢井の行動に対し、秋彦の言葉は、明らかに、旅する連中ではない、周りの連中と五十歩百歩のコメント。それに怒り狂うの沢井は、これまでの大人しさからすれば極端である。
 そこなのだ。直樹に対する沢井の思いからすれば当然だ。何故なら、人と人、支えあうのに必要とする存在、そういう意味での仲間なのだから。なのに、秋彦の言葉、僕らみたいに思いとどまれればまだしも、一線を越えた人間は隔離するか治癒する場所に閉じ込めるしかない、みたいなことを言う。それに対する沢井の敏感な反応と怒り。あああ、わかった、これなのだ。普通に生きている連中からすれば、宙ぶらりんの中間で生きている人々からマイナスの地平へ脱落したものは、ともに生きることは迷惑なのだ。被害者とはけっして加害者のみに作られるものではないのだ。
 さらに見えてくる。田村兄妹が両親不在で学校も行かずに屋敷にただ佇んでいたのは、そういうことなのだ。普通の人々とともに生きることを拒絶させられる存在なのだ。そうして言葉も発せず自らたちを隔離させながらも、直樹は、日常との関わりを通り魔殺人という行動で繋ぎとめていたのだ。
 さらにさらに見えてくる。バスジャックの事件を担当した刑事が、なんと犯人と同じを眼をしている、ということで沢井を通り魔殺人犯として断定したがる。その刑事も、刑事としての普通の人々の一員なのだ。もともと被害者なはずの沢井がバスジャック犯人と同一視されるということこそ、この世の普通なる人々が形成する世界なのだ。おそらく、沢井とバスジャック犯人が同一に見える眼をしているならば、犯人そのものが何かの被害者なのかもしれない。
 しかし、普通に生きる人々は、それを同じ仲間としてみることができない。異常者として片付けたがる。だからだ、沢井の家族も、沢井自身の存在が疎ましい。まさに存在を隠していた間と同様、目立つことをするな、なのである。彼の妻、国生さゆり演じる弓子も同じ穴の狢かもしれない。亭主に対し、一時逃げ隠れしていたことに、自分勝手だ自分のことしか考えていない、そう罵る。そうじゃない、逃げ隠れしていて困った自分がいる、自分こそ、普通の宙ぶらりんに生きている曖昧な人々とおんなじだ。だから、沢井も、彼女にただ謝るだけで、彼女との再生は期待をしない。普通の人々にとって、今さら普通の人々にさせていただけない、迷惑な存在よ。そんな存在だから、謝るしかなかろうに。
 沢井がよりどころにでき、ともに立ち直ろうとできるのは、事件で同じ境遇にあった兄妹だけなのだ。同じような事件に巻きこまれたという従兄の秋彦すら、途中までともに旅をするが、秋彦も周りと所詮同じでしかないのでは、しかし、同じような事件に巻き込まれた同じ仲間なら分かって欲しいがために、沢井はあえて怒りをあらわにしたのだ。
 上を見れば空。下を見れば雲。そんな宙ぶらりんの空中庭園に空中楼閣を作って過ごす普通の人々よ。真の大地は雲の下で見えないだけであることを自覚せよ。自覚できても諦念で心そぞろ逝くのかもしれないが。
 この「分かった」のための3時間はけっして長くはない。この時間は、私たちに「ユリイカ」の「分かった」に落とし込むに必要な時間ではなかろうか。再生を前に、血を吐く沢井の救われないかもしれない肉体が最後まで気にかかる。
 監督のみならず脚本から編集、音楽まで手がけた青山真治。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」の監督だ。一見徒労にも見える再生の物語は引き継がれていく。