マリー・アントワネット | 空想俳人日記

マリー・アントワネット

与えられし 運命の中での 生命謳歌 



 あの訳の分からない国のおかしな街、それって東京のことなんだけど、たまたま旦那の仕事についてきたばかりに放り出され、行き場を失う若妻の話「ロスト・イン・トランスレーション」を描いたソフィア・コッポラ監督作品。今回の「マリー・アントワネット」は、マリー・アントワネットの運命を現代版の面白コミック調に仕上げた作品、だと予告を観た限りでは思っていた。
 それは、それなりに面白かろう、観ておくか、そう思いながら、他のおもしろそうな作品に押されて後回しになっていた。で、やっと観た。面白おかしい現代版のマリー・アントワネットがここにある、そういう感想になるだろうと思ったら、実は、そうではなかった。何が面白いんだと。
 まず、「ロスト・イン・トランスレーション」の時の主人公、若い妻役のスカーレット・ヨハンソンと、訳の分からないサントリーのCMの仕事で東京に来てたビル・マーレイの、感極まるラストの感動的な抱擁ばかりに目が行っていた私に、ああ、あの作品は、それだけじゃなかったんだ、と分かったこと。そして、ソフィア・コッポラにとって、あの時のスカーレット・ヨハンソン役と今回のマリー・アントワネットが性格は違うものの同じ環境の女性であり、お互いの旦那の位置付けも同じような場所にいること。違うのは、「ロスト・イン・トランスレーション」の旦那は売れているかどうかは知らないが、果敢に訳の分からない国でも妻を放って置いて仕事に挑む能動的なタイプ、今回のアントワネットの旦那は、歴史の中で家系からそうならざるを得ない境遇のちょっと腑抜けた男。腑抜けたと言いながら、歴史上は、フランス君主政治のお世継ぎなる立場の人間だが。
 なんだ、あんた、そういうことが言いたかったのか、そう、私は、今回の作品を観て、前の作品も鑑み、そう納得した。じゃあ、今回のマリー・アントワネット役、キルステン・ダンストじゃなく、スカーレット・ヨハンソン使えばよかったのに。じゃあ、ついでにアメリカ国支援の一環で途中に登場するスウェーデン伯爵なる浮気相手がビル・マーレイか。いやいや、それは違う。むしろ、ルイ16世がビル・マーレイだとも言える。
 前回の作品観てねえから分かんねえよ、という方に、これは、けっして一人の恵まれた女性の半生とその苦悩という観点からと、周りの人々を今時のセレブたちに置き換えた人生への退屈さという現象からだけで捉えないほうがいい、そう私は思う。 別の観点、違う捉え方をするために、余りにも安直かもしれないが、言うなれば、歴史を作っている原動力は、いつも男の身勝手であり、その中でどう生きるか、などということも考えられない暇も与えられない女性は、こうして生きる術しかなかった、ということ。さらに、こういうふうに生きる脳味噌しか女性には、男は認めてこなかった、とないうこと。
 歴史上に伝えられるマリー・アントワネット像、14歳で結婚、18歳で即位、豪華なヴェルサイユに暮らす孤独。これを歴史観で私たちはどう捉えているか、そのテーゼに対するアンチテーゼを考えねば、この映画は見えてこないかも知れない。
 例えば1755年11月2日にウィーンで誕生した彼女。幼少より自由奔放に成長したという彼女だが、当時のオーストリアがプロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており、その一環として母マリア・テレジアは、彼女とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策したことに、当該者である彼女はどう思ったか。さらに宮廷生活、マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲、趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあったと言われているが、その寂しさを紛らわすため奢侈に没頭していたという説、夜ごと仮面舞踏会。こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵との浮き名の宮廷での噂。
 これらを、ある意味では忠実に描いているようではあるが・・・。フランス革命に向けて、王政に対する民衆の不満、そして爆発、。国王一家はパリを脱出するが、その後、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑となるとともに、マリー・アントワネット自身はコンシェルジュリー牢獄に移され、その後、革命裁判で死刑判決を受け、夫の後を追ってギロチン送りに処せられた。
 映画には、この最後までは語られていない。何故なら、必要がないのだ。その歴史的事実を変える映画ではない。ただ、その歴史の中で、マリー・アントワネットがどう生きたのか、その思い、或いは思いが伝わらなければ、表情だけでも描きたかった、それがソフィア監督の真意だろう。
 ルイ王朝とフランス革命、そんな歴史を描きたかったのではない。そのモチーフを使いながら、「ロスト・イン・トランスレーション」でのテーマを、別の角度から描きたかった。それは、簡単に言えば、決められた運命を与えられた女性は、その運命の中で一生懸命生きるしかなかった、ということ。そして、この生きるとは、まさに真実である。
 恋愛をする年頃にいかぬ頃に結婚をさせられ、お世継ぎという役割を使命として生きながら、その環境の中で、できる限りの生命謳歌、いわゆる青春をエンジョイする。その青春のひとつに、別の恋愛。もともと、恋愛があっての結婚ではない。しかし、最後は、運命のもと、恋愛対象ではない相手との覚悟を決める、この映画では明らかに自らの意志で。旦那以上の強い意志で。これが、この映画の主人公役キルステン・ダンストに与えられたソフィアのマリー像だ。だから、最後に、ルイ16世よりも先に革命を起こそうとする者たちの前に勇気を奮って姿を見せ顔を平伏すのである。
 いかに男社会の最後の情けないことよ、そうソフィアは言いたかったのではないか。かつて、前の映画で社会へ猪突猛進なる旦那なんかには分からないであろう心を、同じ層の旦那よりも大幅年上のビル・マーレイに感情移入させた。今回のマリー・アントワネットは、途中いろいろな経験を踏みながらも、最後には、革命児の民衆の前に首を垂れる。
 私は、この映画は、単に現代コミカル版などという触れ込みの作品ではないことが分かった。そして、ひょっとすると、日本よりも女性社会が世界では進んでいると言いながら、ソフィアは、あいかわらず世界はマリー・アントワネットと同様の境遇で生きるしかない女性が多いのではないか、そう言いたいのではないか。そして、たまたま日常些細な場合で言えば、前回の映画の、スカーレットだったのだと。
 ルイ王朝とフランス革命と、その中でのマリー・アントワネット。日本人には特に世界史に疎い人にはピンと来ないかもしれない。もし、分かりやすくするために、冒険活劇的大胆さで例えさせていただくなら、20世紀末のバブル全盛期を比較材料にさせてもらってはいかがだろう。マリーの周りの人々を今時のセレブたちに置き換えるとすれば、まさに日本のバブル全盛の頃の泡景気の真っ只中に、マリーと同様の青春時代を送った人たち。彼らはちょうど団塊世代ジュニアと呼ばれる人たちだ。そして、彼らが社会人となる頃にはバブルの崩壊。こうした時代を作ってた人たちは他ならぬ彼らの世代の親たち、いわゆる団塊世代の男たちだ。
 その観点でアメリカに置き換えてみよう。今のブッシュ政権に対するアメリカの社会は、イラク派遣も含めて全土が沸きに沸いた。ところが、それが正しい社会だったのか否か、今問われている。その中で生きる女性たちは・・・。ソフィア監督の心の中には、女性としての奥深いエネルギーが渦巻いている。そして、そのエネルギーの発露が映画制作になっている、そう思えなくもない。
 ルイ王朝とフランス革命と、現代の日常茶飯事。男たちは、いつの時代も、女に対してこうなんだ、ソフィアはそれが言いたくてたまらないのだろう。最後のマリーの疲れ果てながらも意志の強い顔とともに、エンディングの音楽がとても切なく伝わってくる。華美な生活に合わせた現代的なPOP感覚の曲が全編を彩っているだけに、その効果は大きい。
 男どもが作る映画とは違うんだからね、私の映画は、そんな監督の声が聞こえてくる。当然アカデミー賞なんてどうでもいいんだ、きっと。