SAYURI:Memoirs of a Geisha | 空想俳人日記

SAYURI:Memoirs of a Geisha

一葉の 想いを糧に 身を託す 



 当初、スピルバーグ自身が監督する予定だったらしいけど、多忙故、製作に回ってロブ・マーシャルに監督まかせたらしいけど、本当かなあ、多忙って理由。
 構想の段階でクロサワからの助言もあったらしいけど、なんか、アメリカの場合、編集権がディレクターになくプロデューサーにあるらしいこととか、スピルバーグのここんとこの作品群を鑑みますれば、どうなんでしょう。
 まあ、下衆のかんぐりはよしとしまして、非常にユニークな作品でおもしろい。さすが「シカゴ」のロブさん。さらに、主役のさゆりにチャン・ツィイー、いいじゃなあい。ほりゃ、日本人起用できればよろしかったのでしょうが、全世界からすれば日本もアジアも同じなんだろうし、原作自体がアメリカの作家によるもの、それに個人的にも「HERO」や「LOVERS」「2046」と、なんとなく彼女の後追いもしている自分。予告で、視線だけで通りすがりの男を惑わせるシーンに、私自身もドキッ。こりゃ観なけりゃソン、だったわけだから。
 でも、なんだろう、なんというか、これまで彼女に出会えた作品と比較すると、彼女の存在感が余り感じられない。何故だろう。先に述べた予告で観た誘惑視線ドキドキッ、この場面が一番存在感を感じた、であとは・・・。
 そうかあ、周りの女性人がみんな、凄く濃い存在感があるのよねえ、その中に埋没した、あるいは、逆に回りの女性人のインパクトに対し、反作用で押し殺し演技、なのかも。
 まずは、さゆりのおねえさん(芸者の世界での)の初桃役を演じるコン・リー、この映画で一番の渾身の演技。映画の中のように、まさにチャンに対し「あんたなんか、まだまだひよっこ」みたいな女の情念が演技にも現れていた。凄いわ、この人。
 それに、ミシェル・ヨー。さゆりを花街きっての芸者なるよう力を貸す豆葉役。彼女こそ、日本人女性らしい演技をしてた。なんか、みんな香港スターだけど、でも、日本人も頑張ってた。
 さゆりのほぼ同輩にあたるおカボの工藤夕貴。なかなかやるじゃん。さゆりに仲良くしながらも、結局は心の底でうらんでいて奈落の底に落とすような毒舌を吐くのよね。うん、いい、いい。
 おかあさん(芸者の世界での)を演じる桃井かおりも、ほらあ、あたしが桃井かおりよ、と、しっかりと印象付ける演技をしていた。世界が注目するわ、きっと。
 そう、これは、まさに女性たちの格闘の世界(この映画で芸者の世界そのものを云々かんぬん言うことはあえてしませんよ。せっかく心に感じたことが台無しになりそだから)。
 さて、シングルマッチは、チャンVSコン。メインイベントのタッグマッチは、チャン&ミシェルVSコン&夕貴。レフリーに桃井かおりだけど、ユセフ・トルコみたいにレスラーに巻きこまれるのよね。
 それに比べると、男性人の影が薄いわ。会長さんの渡辺謙も延さんの役所広司も。役所殿はそれなりに頑張ってたかな。でも、謙さん、いまひとつ大人しかった。まあ、そういう役柄だといえばそれまでだけど、なんせ会長さん、道端で塞ぎこむ千代に優しく声をかけ花街一の芸者さゆりとなる生き甲斐を与えたキーマンだぞ。なのに、ラストのさゆりへの幼い千代の時に初めて出会ったころの記憶を告白する場面も、おお、涙がじわじわっ、でも、だだだだ、とは流れてくれない。チャンも、その感動の時くらい、子供時代の千代の表情に戻って欲しいのに、相変わらず仮面というか能面のようなさゆりの表情。そういう人間になっちゃったってことか、そこまで読んでもいいの?
 が、そこで、幼き日の千代の映像が甦るのだ。さあ、ようやく熱い涙がドワッと落ちる。そう、そうなのだ、幼き日の千代のおかげ。誰だ、「北の零年」にも出てた大後寿々花ちゃんじゃありませんか。そうか、彼女なのだ。彼女の演技。大人のさゆりが今ひとつなのは、おそらく彼女のせいだ。女性たちの熾烈な格闘の中で、ひときわ輝いていたのは、チャンの心、まさしく、寿々花ちゃんではなかろうか。
 この映画は、けっして全てが丸く治まる単純なハッピー・エンドなんぞではなかろう。その道程は余りにも峠の山道のように厳しく曲がりくねっている。あるいは川の流れのように。今なら新幹線のようにトンネル掘って真っ直ぐ進めば済むと思われるだろう。しかし、それが人生なのだ。それに、誰だってスタート地点を選ぶことはできない。みんな同じ環境、同じスタート地点で生まれたわけじゃない。だが、選ぶこともできずして放り込まれた芸者という世界の中では、ある意味、同じスタートは切れる。

 そして、その先、どんな山道でどんなに厳しく曲がりくねっていても、どんなに川の流れが紆余曲折していようと、それを行くしかないのだ。
 ただ言えるのは、神様にお願いをしに幼い千代が神社を駆けていくシーン、その彼女の生きる希望を得た笑顔が再度エンディングに用意されたことで、この映画の全てが救済されたということではなかろうか。