眩しい。
 物語がはじまるたび、いつもその眩しさにくらくらする。

青のフェルマータ Fermata in Blue (集英社文庫)/村山 由佳
¥480
Amazon.co.jp

 オーストラリアの空の眩しさ、海の透明感、太陽の熱。

 扉を開けた瞬間から、それらが鮮烈に展開する。

 おそらく一年ぶりにこの本を開き、その描写のあまりの現実的なてざわりにあわててあとがきに目を滑らせる、ああ、やっぱり、と安堵の呼吸を落とす。作者は夏のオーストラリアを訪れたことがあるのだ。

 オーストラリアという国が南半球にあることくらいしか知らなかった学生のころは、表現を通してわたしの空想の中から生まれる景色をただただわけもわからず愛でていた。

 あの国を第二の故郷と誇るいまは、空想の中の景色の中で、確かに感じるのだ。オーストラリアの空気の温度を、風の匂いを、水の色を。


 そうして描き出される景色が眩しければ眩しいほど、その中で生きる人物たちの翳もまた、濃く浮かび上がる。

 一方で、眩しさに目がくらみ、とても重たい背景がまるで当然のような顔をして物語にするりと入り込んでいることをぼんやりと受け入れる。

 両親から拒絶されたリオ。ゲイリー。秘密を抱えるアレックス。自閉症の少女と向き合う家族。

 用意された舞台はとてもあたたかく、とても明るいのに、出てくるのは満身創痍の人間ばかりだ。

 その傷を少しずつ癒していくもの、逆に傷を広げていくもの、傷を大事に抱えていくもの……その風景の中心にはいつも、イルカがいる。


 皮肉なものだ、人間には言葉があるというのに。

 皮肉でありながら、それはまたある意味、あるひとつの手段であるのかもしれない。

 言葉だけでは伝わらないこと、お互いが向き合うだけでは解決しない問題、というものも、確かにこの世界には存在する。そこに情報伝達の方法のまったく違う異種族が介入することで、止まっていた何かが動いていく様は、その結果の如何を問わず……価値があるものではないだろうか。

 リオとキャロル・アンにしても、リオとゲイリーにしても、イルカを間にはさむことで歯車が少しずつ、動いていく。

 リオとゲイリーの歯車は軋んで、不協和音を響かせてしまったが……リオが後述する、「彼とはもっと……何かもっと別の関わり方をするべきだったのに」という思いは、この物語の向こう側で、きっと果たされたに違いない。

 ただ、かといって、この物語が言葉の有用性を完全に否定しているかといえば、それは決して、そうではない。

 終盤でリオは再び言葉を必要とすることになる。彼女が「いま」「どうしても」伝えたいことを、伝えるために。

「言葉ってやつはな、相手を傷つけもする代わりに、すでにつけられた傷を癒してやる手伝いもできるんだ」


 この作品に対して、「終わり方が中途半端」、「読者に委ねすぎ」という意見をよく目にするが、わたしはこれでいいと感じている。この舞台の上で、リオは一歩ずつ成長していった。それを見守っていた側からすれば――彼女があのあと、誰に対してどんな行動をとったかは、確信をもって想像できる。