愚将十奸 ~帝国陸海軍の名誉を貶めたトンデモない将校たち~
 
 其乃参:軍機を奪われてもシラを切り通した堅物 福留 繁 海軍中将

 福留繁は明治24(1891)年2月11日、鳥取県西伯郡所子村大字福尾(現大山町)の貧しい農家の出身。大東亜戦争開戦時には軍令部作戦部長を務め、以後連合艦隊参謀長、第二航艦長官、第一南遺艦隊長官兼第十三航艦長官、第十方面艦隊長官などの要職を歴任。戦前・戦中における帝国海軍の作戦の中枢にいました。最終階級は海軍中将。

軍機を奪われてもシラを切り通した堅物 福留 繁 海軍中将  写真は昭和27年に撮影されたものです。Wikipediaから転用。 



 海軍大学校を首席で卒業した福留は、海軍士官の間では戦略・戦術の神様と称えられていました。でも実際には、戦前における海軍主流の大艦巨砲主義者として知られる頑迷な鉄砲屋の典型であり、山本五十六元帥閣下らが重視した航空戦への理解に欠けていました。つまり、教科書通りの戦術・戦略しか立てられず、柔軟性に欠けていた堅物の福留は、初めから近代戦を任せられる軍人ではありませんでした。


 そんな福留は、後に日本軍にとって致命的となる事件を起こした張本人です。以下、その詳細を紹介させて頂きます。



 昭和19(1944)年3月、当時日本の統治下にあったパラオが大空襲に見舞われました。それを受け、司令官の古賀峯一海軍大将率いる連合艦隊は、連合艦隊司令部をパラオからダバオ(フィリピン)に移すことを決定。そして、同月31日に古賀閣下や福留ら司令部要員は飛行艇(二式大艇)で移動を開始。ところが、途中で低気圧に遭遇し、古賀閣下の搭乗機はパラオ近海で行方不明(遭難殉職)となり、福留らの二番機はフィリピンのセブ島沖に不時着しました。なお、この事件は「海軍乙事件」と呼ばれ、戦中には極秘中の極秘として取り扱われました。

 


 セブ島周辺の地図
 セブ島は、フィリピン中部のビサヤ諸島に位置し、南北に225kmにも及ぶ細長い島です。この島で福留は、抗日ゲリラに軍機を奪われました。


 そして、搭乗していた9名は泳いでセブ島に上陸。その直後、現地で抗日ゲリラに捕らえられ、作成されたばかりの中部太平洋方面作戦書(Z作戦計画書:昭和19年3月8日付「聯合艦隊機密作戦命令第七十三号」)、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われるというトンデモない失態を演じました。なお、ゲリラに対して警戒心を抱かなかった福留らは、拘束時にそれらの機密書類が入った防水ケースを川に投棄したものの、すぐに回収されてしまったそうです。


 奪われたZ作戦計画には、後のマリアナ沖海戦、捷一号作戦の計画が詳細が書かれていました。福留が奪われた数々の機密書類は後にゲリラからアメリカ軍の手に渡ってマッカーサーの知るところとなり、オーストラリアのブリスベン郊外に置かれた連合国軍翻訳通訳部でアメリカ陸軍情報部の要員によって翻訳され、20部配付されました。


 つまり、この時点でアメリカ軍は、労せずして日本海軍の手の内を知ったわけです。そして、以後のマリアナ沖海戦、レイテ海戦で日本軍を撃破。対日戦争の勝利を決定付けたことは言うまでもありません。実際に、福留が奪われた暗号書は、戦後公開されたアメリカ公文書の中から発見されていることから、以後の日本軍との戦いでアメリカ軍がそれらを有効的に活用したことは確実視されています。


 その後、日本政府は、ゲリラとの交渉の末、日本軍の討伐隊による攻撃を中止させることと引き換えに福留らの解放に成功。福留を東京に帰還させ、海軍次の官沢本頼雄中将らが事情聴取を行いました。


 ところが、福留本人は徹底して機密書類紛失の容疑を否定。また、当時日本軍将兵の間では、『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すことなかれ」と訓示されている通り、敵の捕虜となることがこの上ない恥と見なされていました。それは、海軍乙事件も例外ではなく、福留がゲリラに捕縛されたことを敵の捕虜になったと見なすかどうかが大きな問題となりました(結局、海軍は不問と判断)。



 戦後、福留は、GHQの下で戦史の編纂をしていた元連合艦隊作戦参謀大井篤(最終経歴は海軍大佐)のところに出向き、「君や千早が機密書類が盗まれたと言っており、迷惑している。こんな事実は全くないんだ」と自身の潔白について強弁。でも、大井は「盗まれたのは事実です。お帰り下さい!」と切り返し、福留を追い帰したそうです。


 しかし、福留は海軍上層部に擁護され、軍法会議にかけられることも、予備役に退かされることもなく、その後もフィリピンの第二航空艦隊司令長官を拝命。レイテ沖海戦を指揮しました。戦後、陸軍は国の内外からとかく批判の矢面に立たされ続けたましたが、海軍もこうした身内に甘い体質をもっていた点は、近現代史の真実として私たち日本国民はしっかり記憶して置かなければいけません。


 陸軍がヒール(悪玉)で、海軍がベビーフェース(善玉)というのは嘘!全くのデタラメです!!


 私たちが大東亜戦争を顧みた場合、とりわけ重視すべきは、陸軍と海軍の優劣ではなく、帝国軍人一人ひとりの資質をもっと深く掘り下げ、正統な評価を下すことだと私は確信しています。


 戦後、福留は東京裁判で戦犯として起訴され、禁固3年の判決を受けて服役。昭和25年に復員。そして、昭和46年2月6日逝去。享年80歳。合掌


 最期の最期まで、機密書類を奪われた自らの重大な非を一切認めようとはしませんでした。


 でも、その本心を察すると、あまりにも責任が重すぎるため、事実を認めることが怖かったのでは?それとも・・・


 
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