42 天皇陛下に何度も褒めちぎられた中川大佐の戦い

 昭和20年9月15日午前5時30分。その時歴史が動きました。


 場所は「西浜」と呼ばれ、すでに米軍艦の砲撃と焼夷弾の集中砲火を浴びて植生を失ったペリリュー島中西部の海岸。なお、同海岸は上陸作戦を展開した時点で米軍から「オレンジビーチ」と命名されていました(参照:パラオの戦争遺跡は凄すぎる!(37) ~米軍が上陸したオレンジビーチ 編~)。


 米軍は西浜一帯に艦砲射撃を再開。さらに艦載機による爆撃を経て、日本軍の反撃を遮る発煙弾を打ち込みました。そうした掩護を受けるなか、米海兵第一師団は約300両ものLVTに分乗し、上陸を始めました(参照:パラオの戦争遺跡は凄すぎる!(40) ~米軍LVTを水際で迎撃した「短20cm砲」~)。


 ところがその直後、日本軍が珊瑚礁(堡礁)と西浜海岸の中間に敷設した機雷、山上の砲兵陣地の砲などで米軍上陸部隊は大混乱に陥りました。そこで米軍は残存LVTを再集結させて態勢を立て直し、第1波出陣の1時間半後に再び上陸を決行しました。


 それを迎え撃ったのは当時「関東軍最強」と謳われた現役部隊。西浜の北側に西地区隊(富田大隊:635名)、南側に南地区隊(千明大隊:750名)がそれぞれ布陣しました。両地区隊は混戦に持ち込む展開を誘うため、米軍上陸部隊を充分に引き付けてから一斉に反撃する捨て身の戦法を駆使するなど、米軍を何度も撃退しました。西浜は米軍将兵の遺体で埋まり、砂地が血で赤く染まったそうです(参照:パラオの戦争遺跡は凄すぎる!(32) ~ペリリュー島こそ日本人の聖地 編~)。


 一方、米軍が上陸した9時間後、歩兵第2連隊長の中川州男大佐は反撃を命令。それに島南東部の中崎に待機中の第14師団戦車隊(天野国臣大尉)が呼応。虎の子の「九十五式軽戦車」16両を大山の麓に集結させ、午後4時30分に海岸の米軍に攻撃を開始。なお、戦車上部にはロープが張り巡らされ、それにまたがる形で大勢の歩兵が斬込隊として米軍陣地に突入しました。


 しかし、戦車隊は米海兵戦車中隊のM4シャーマン8両の火砲の前に苦戦を強いられ、斬込隊の反撃も失敗に終わりました(参照:パラオの戦争遺跡は凄すぎる!(36) ~上陸した米軍を迎え撃った九五式軽戦車 編~)。


 結果として米軍は初日に上陸作戦を完遂し、ペリリュー飛行場の南端までを占領しました。ただし、
米軍は日本軍の猛反撃を遭い、初日だけで1000名を超す死傷者(戦死者210名、負傷者901名)をはじめ、上陸用舟艇60数隻、M4シャーマン3台、LVT26台を破壊するなど、多大な犠牲を払わされました。


 日本軍は9月15日夜から16日朝にかけて夜襲を敢行。しかし、優勢に転じた米軍に火砲を悉く破壊された末、16日に飛行場を奪われました。同日、中川大佐は連隊本部を大山に移し、残存兵力を結集。絶望的な戦いだと分かっていながら、物量で圧倒する米軍に対し、島中に張り巡らした洞窟陣地に身を潜めながら徹底した持久戦を挑みました。


 なお、ペリリュー島の日本軍は、米軍の上陸に備えて4ヶ月間で500余りの洞窟陣地を構築したそうです(NHK特集番組で生存兵談)。つまり、中川大佐は、決戦の前から戦局の絶対的な不利を悟り、初めから正攻法を捨てました。そして、
米軍により多くの出血を強いるため、ペリリュー島の地形、とくに硬いサンゴ石灰岩と自然洞(鍾乳洞)を最大限に活かす決断を下しました。


 その結論こそ、自然洞(沖縄では「ガマ」と呼ばれています)を拡張したり、それぞれ繋げたりして構築した洞窟からなる強靱な地下陣地でした。


 前回触れましたが、今回のツアーでいくつかの壕に入られて頂いたところ、そのどれもが狭い入口とは対照的に内部は普通に立って歩くことができるほど広いのが特徴的でした。そして、内部には他の壕との連絡を可能にする横穴が無数に掘られていました。これは、現場観察至上主義を掲げる私にしか書けない記事でしょう

 
 洞窟陣地 ツアーの終盤に立ち寄った洞窟陣地郡の一部です

 
 洞窟の内部(1) 内部は真っ暗でしたが、懐中電灯をともすと戦争の時代が蘇りました。日本軍が戦争で使用した物資が納められていました


 
 洞窟の内部(2) この輪っかは・・・忘れました
 

 
 洞窟の内部(3) 輪っかの部分をさらに拡大。 


  
 洞窟の内部(4) 何に使う道具でしょうか?表面に石筍(天井から垂れ落ちた水滴に含まれる石灰が固まってタケノコ状になったもの)の赤ちゃんが生まれていました。69年の年月の経過を感じました 
   
 
 洞窟の内部(5) これはお馴染みのリアカーです。ここにも石筍の赤ちゃんが生まれていました

 
 洞窟の内部(6) 本物の爆弾。倒すと爆発するかも?コワッ


 
 洞窟の内部(7) これも爆弾です。でもたくさん見過ぎてしまい、慣れてしまいました

 
 洞窟の内部(8) かなり大きな物体。これは・・・忘れました(何度もスミマセン

 
 洞窟の内壁の銃痕 この場所で洞窟に侵入した米軍との銃撃戦が展開された模様 お分かり頂けるでしょうか? 

 
 スコールの襲来 洞窟から出てホッとした矢先、スコールに見舞われました。黄色いレインコートの男女はおそらく新婚さんだと思います。 熱々でした


 話は脱線しますが、旧足尾銅山の備前楯山の地下にも立入は禁止されていますが、坑道が縦横無尽に掘られているそうです。個人的には、富岡製糸場よりも旧足尾銅山の方を先に世界遺産に推して欲しかったです(栃木県民よしっかりせんか ) 何しろ、明治・大正期の日本にとって銅は生糸と並ぶ、日本の輸出品の花形でしたし、鉱毒事件を後世に伝えるためにも有意義ですから。

 それからもう一つ。信州松代大本営も凄い一般に公開されている部分はごくわずかで、皇居や政府機関を移転させるため、やはり精緻計画に基づいた地下壕が構築されています。おそらく国内最高レベルの戦争遺跡でしょう


 話を戻します(スミマセン)。


 そして・・・


 米軍上陸から73日が経過した11月24日。弾薬・食料が底をつき、中川大佐はやむなく戦闘の継続を断念。指揮下の将兵に玉砕を許し、自らも拳銃で自決したとされています。合掌


 それまで玉砕を禁じられた日本軍将兵たち。彼らは完全に米軍に包囲され、息が詰まりそうな洞窟陣地に何十日もじっと身を潜め続けました。すでにマッカーサーがフィリピンに上陸し、パラオでの戦いが戦略上何の意味をもたなくなった段階においても、大本営は彼らの玉砕を決して許しませんでした。


 その挙げ句の果ての玉砕。彼らが置かれた状況は想像を絶するほど過酷なものだった思います。合掌


 
 顕彰碑(1) 
連隊本部壕の前に立てられていました。

 
 顕彰碑(2) 
連隊本部壕の前に立っていました。私たちツアー一行はここでもお線香をあげ、中川大佐以下、この島の戦いで散華された全ての英霊に対し、哀悼の祈りを捧げました。合掌 



 顕彰碑(3) 碑文を読ませて頂いたところ、あり得ない「昭和64年2月」の文言が刻まれていました。Dスケ氏によると、昭和に起きた戦争なので、年号をあえて「昭和」のままにしたものだそうです。納得



 慰霊碑の基部 錆びた鉄兜や飯盒、水筒などが放置されていました。これも一級品の文化財なのですが・・・これがパラオスタイルです。持って行く不埒な輩はいないようです。何しろ、それは英霊に対する冒涜。思い切りバチが当たりますから 


 
 連隊本部壕(1) 大山中腹の岩場の洞窟が「連隊本部壕」に選ばれたようです。「大山戦闘指揮所洞窟」とも呼ばれているようです。
 合掌

   
 
 連隊本部壕(2) この壕戦闘継続を断念した中川大佐(歩兵第2連隊長)が自決したとされる場所です。 合掌

    
  
連隊本部壕(3) 
中川大佐の自決後、この場所からパラオ本島の師団司令部に玉砕を伝える「サクラ・サクラ」が電信されました。 合掌

 
 連隊本部壕(4) 千羽鶴が献納されていました。 
合掌
  


  連隊本部壕の内部 壕内は土砂で埋まっているように見えました。おそらく米軍に破壊されたものと思われます。
合掌


 ペリリュー島の守備隊からパラオ本島の師団司令部に「サクラ、サクラ」の電文を送られた後、傷だらけの55名の日本軍将兵が最後の決死隊を組織。24日夜から27日朝にかけて間に米軍と交戦し、全員玉砕しました。なお、日本に生還できたのは、米軍に投降した将兵約500名でした。

 こうして日本軍が組織的抵抗が終焉。その際、米第81師団長ムラー少将は「今やペリリューは天皇の島から我々の島に移った」と宣言。それ以来、ペリリュー島は「天皇の島」という異名をとるようになりました。確かに中川大佐の戦いは昭和天皇から何度も褒めちぎられ、御嘉賞11度、感状も3度下賜されるほど傑出したものでしたもちろん、玉砕するまでの間、天皇陛下からそれだけ多くの褒賞を賜った部隊はもちろん他には見当たりません


 ペリリューの戦いについて、日米両国の損害の規模を単純に戦闘に伴う死傷者で比べた場合、日本軍の10695名に対し、米軍は9804名(戦死者1794名)に上りました。ただし、日本軍の兵員には当時日本国籍の朝鮮人労働者が多数含まれていたことから、ペリリューの戦いは事実上、米軍の損害が敵軍のそれを上回った最初の戦闘と言われています


 つまり、中川大佐は、米軍に史上最大の損害を与えた指揮官として後世語り次がれるべき軍人の一人だと言えます。



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  今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。


 次回は、闘将中川州男大佐の人物像について紹介させて頂きます。乞うご期待!