前回からだいぶ間が空きましたが、最終回の今回は、〈高校日本史教科書の「東京裁判」に関する記述表現〉」と題し、本稿の末尾に添えた補足資料を紹介させて頂きます。

 なお、教科書及び教科書会社の名前を公開することは名誉棄損に直結するおそれがありますし、特定の教科書会社の名誉を傷つけることが私の目的では決してありませんので、それらの名前はあえて伏せさせて頂きます。


 
+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+**+*+

 

【資料】高校日本史教科書の「東京裁判」に関する記述表現

 

 東京裁判を肯定する自虐的表現については活字を赤色、否定的な表現については青色、記述内容の誤りや不備についてはピンク色でそれぞれ表した。さらに、問題視すべき自虐的表現については、でその理由を、また記述内容に訂正を求めたい表現については、でその理由をそれぞれ付記した。
 
 なお、教科書採択率(日本史Bは回答学校数449)については、㈱ベネッセコーポレーションがまとめた『教科に関するアンケート結果報告冊子 進研模試2011』による。 


Y社:日本史B教科書
  
H18.3.20検定済  採択率87%
〇本文(小項目「占領と改革の開始」;9行):1945年9月から12月にかけて、GHQは軍や政府首脳など日本の戦争指導者たちを次々に逮捕したが、うち28人がA級戦犯容疑者として起訴され、1946年5月から東京に設置された極東国際軍事裁判所で裁判が始まった(東京裁判)。戦犯容疑者の逮捕が進むとともに、内外で天皇の戦争責任問題もとり沙汰された。
 「戦犯」とは何か。その定義が曖昧である。

〇コラム〈東京裁判;18行〉:ポツダム宣言は戦争犯罪人の「厳重なる処罰」を明記していたGHQは侵略戦争を計画・実行して、「平和に対する罪」を犯したとして、戦前・戦中の多くの指導者を敗戦直後から逮捕した(A級戦犯) GHQの一部局として設置された国際検察局を中心に被告の選定が進められた結果、1946年4月、まずは28人の容疑者が極東国際軍事裁判所に起訴された。審理の結果、1948年11月東条英機以下7名の死刑をはじめとして全員(病死など3名除く)に有罪の判決が下され、翌12月死刑が執行された。この裁判で、国家の指導者個人が戦争犯罪人として裁かれたのは、例のないことであった。しかし、11名からなる裁判官の間には意見の対立があり、朗読された多数派判決のほかに、インドのパル、オランダのレーリンクらが反対意見を書いている
 「戦争犯罪」の定義が曖昧。
 「侵略戦争」がどの戦争を差すのか、その定義が曖昧。また、世論を開戦へと導いた新聞各社や出版業界などマスメディアの責任、当時好戦気運に湧いた国民の責任を伏せ、いわゆる「A級戦犯」たちに戦争を計画・実行した重い責任を全て押し付けてしまう表現は、まさしくWGIPに洗脳されてしまった戦後日本人の忌々しき思考そのもの。

〇写真〈東京裁判の開廷〉:1946(昭和21)年5月、東条ら戦時の最高指導者たちが被告席に並んだ。
 東京裁判は刑事裁判なので、「被告席」ではなく「被告人席」と表記するのが正しい。


 

J社:日本史B教科書   H19.3.22検定済  採択率5%

〇本文〈小項目「戦争責任」;14行〉:GHQは1945年9月以後、東条英機らを戦争犯罪人として逮捕し、翌年5月には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開 廷された。重大戦争犯罪人(A級戦犯)28名が起訴され、日本の侵略の実態が暴露され、国民は大きな衝撃を受けた。連合国内には天皇の戦争責任を問う強 い世論もあったが、アメリカ政府とマッカーサーは占領統治に天皇を利用する 方針をとり、昭和天皇は訴追を免れた。1948年11月に判決が出され、東条英機 ・広田弘毅・板垣征四郎ら7名が死刑に処された①。この裁判は原爆投下など連合国側の所業は不問とされたため、「勝者の裁き」という一面をもち、また旧植民地代表の意見がじゅうぶんに反映されないなどの問題点を残した。しかし、侵略戦争の犯罪性を裁き、国際平和の発展に寄与した意義は大きい。
 「戦争犯罪人」の定義が曖昧。
 「侵略の実態」とは、どのような事実を指すのか?仮にそれらが満州事変や日支事変を指すとしても、それらを一方的に「侵略」と断じていいのか?
 日本軍の敗北、東京裁判の結果が「国際平和の発展に寄与した」という表現は誇大表現であり、実際には第二次世界大戦の終結直後、世界は冷戦時代に突入。冷戦は第三次世界大戦に発展こそしなかったが、実際には米ソの代理戦争が世界各地で勃発した。日本の軍国主義が根絶されたことで国際平和が発展したとは軽々しく言えない。

〇注釈①:公判中2名が病没し、1名が精神障害で免訴となり、残り25名全員に有罪判決が下された。A級戦犯のほかに、B・C級戦犯が横浜やアジア太平洋地域で、アメリカ・イギリス・オランダなどによって裁かれ、900人以上が死刑の判決を受けた。なお、731部隊関係者はアメリカへの資料提供とひきかえに、東京裁判で訴追を免れた。
 司法取引で免責とされた石井部隊を取り上げるのであれば、戦後、GHQの広告塔に転向し、その保身に成功したマスメディアのことこそ大きく取り上げるべきである。


〇写真〈極東国際軍事裁判(東京裁判)〉:被告席に着席したA級戦犯。


 

K社:日本史B教科書 H15.4.2検定済   採択率2%

〇本文(小項目「連合国の日本占領」;4行):ポツダム宣言に基づいて日本軍は武装を解除され、戦争を指導した軍部・政府の首脳部は、戦争犯罪容疑者として逮捕された。そのうち主要人物は1946年5月から始まった極東国際軍事裁判 所で審理された(東京裁判)①。 
 「戦争犯罪容疑者」の定義が曖昧。


〇注釈①:B・C級戦犯については連合各国が各地で軍事委員会によって裁判をおこない、984人が死刑の判決をうけ、920人が処刑された。


〇写真《極東国際軍事裁判》:1946年5月、市ヶ谷で開廷され、A級戦犯被告と して28人が起訴され、1948年11月裁判中に病死した2人と精神異常と認定され た1人を除く25人全員に有罪の判決が下った。被告席の1列目、左から4人目 が東条英機元首相。



Y社:日本史B教科書② 
 
H19.3.22検定済  採択率1%
○本文(小項目「東西対立と日本占領」;3行):内外の日本陸・海軍の解体も急速に進み、戦争犯罪(戦犯)容疑者は1945年9月から12月にかけて逮捕され、1946年5月から東京で裁判が開始された①。  
 「戦争犯罪(戦犯)」の定義が曖昧。


〇注釈①:この裁判は東京裁判ともいわれる。極東国際軍事裁判と並行して各地の裁判所では、捕虜虐待などでB・C級戦犯として1000人近くの人が死刑になるなどの判決が出た。

〇写真〈極東国際軍事裁判〉:1946年5月3日の開廷以来、2年半余りの審理の末、1948年11月12日、A級戦犯25名に判決が申し渡され、東条英機ら7名が絞首刑となった。11名の裁判官のうち、インドのパル判事ら3名は、判決文に否定的な意見を提出した。
 松井石根はA級戦犯で起訴されたのは事実だが、実際にはBC級戦犯として死刑判決を受けた。よって、「A級戦犯25名に判決」ではなく、「A級戦犯として起訴された25名に判決」、もしくは「A級戦犯24名及びBC級戦犯1名に判決」と改めるべきである。



T社:日本史B教科書   H15.4.2検定済

〇本文〈小項目「非軍事化政策と軍事裁判」;12行〉:GHQは、ポツダム宣言に基づき、9月以降、東条英機元首相ら100人以上の戦争犯罪人容疑者を逮捕した。戦争全般に対する指導的役割を果たしたA級戦犯の被告として28人が起訴され、1946年5月には、極東国際軍事裁判が開始された。裁判は、1948年11月に終了し、東条ら7人が絞首刑となった。東京裁判は、民主化政策の一環として、戦争中に日本国民に秘密にされていた侵略行為を知らせ、軍要人が処罰されて軍国主義の基盤を破壊する重要な役割を果たした。しかし、天皇を裁判から除外 したり、原爆などの無差別爆撃やアメリカが研究成果を取得した細菌戦などについては不問とするなど、アメリカの世界政策に左右されるものでもあった。 また、戦争中、捕虜や一般市民に国際法違反の非人道的行為を働いた者を裁く B・C級戦犯裁判①が国内やアジア各地で行われた。
 「戦争犯罪人」の定義が曖昧。
 「戦争中に日本国民に秘密にされていた侵略行為」と記述することで、旧日本軍将兵は単純に侵略者の扱いを受けてしまう。また、軍国主義の基盤を構成するうえで直接的な役割を果たしたのはマスメディアのはず。したがって、軍国主義を問題視する際、軍要人だけに責任を押し付けるような表現は、まさしくWGIPによる洗脳教育そのものであり、明らかに真実を歪曲している。
 B・C級戦犯裁判で裁かれた「国際法違反の非人道的行為を働いた者」については、戦時国際法が無防備都市への攻撃を禁止している以上、東京・大阪など国内主要都市への無差別爆撃、そして広島・長崎への原爆投下など、それらに関わった連合国側の人物も該当するはず。WGIPに基づいて、米国は、B・C級戦犯として裁かれた日本軍将兵を巨悪として断罪し、それを日本人の贖罪行為に摩り替えた。


〇注釈①:B・C級戦犯裁判は、アジア各地49か所で行われ、5426人が起訴され、旧憲兵や捕虜収容所関係者を中心に937人に死刑判決がなされた。

〇写真〈極東国際軍事裁判〉:解説なし 



T社:日本史B教科書② 
H15.4.2検定済

〇本文〈小項目「占領と日本の民主化」;3行〉:戦争犯罪の疑いのある政財界や軍部の指導者は逮捕されて責任を追及され、超国家主義者や軍国主義者は公職から追放された。     
 戦犯の疑いをかけた主語をあえて曖昧にした可能性も否めない。

〇写真〈極東国際軍事裁判〉:1946年から極東国際軍事裁判が開かれ、1948年にA級戦犯28被告のうち、東条英機、広田弘毅ら7人に絞首刑、18人に禁固刑判決が下された。そのほか、通常の戦争犯罪の責任を問うBC級戦犯の裁判で 5416人がアメリカ、イギリス、オランダ、中国など7か国により裁かれ937人に 死刑の判決が下された。 
 「通常の戦争犯罪」とはどんな犯罪か、意味不明。


S社:日本史B教科書  
H19.3.22検定済

〇本文〈小項目「占領下の民主化政策」;3行〉:戦争犯罪に対しては1946年5月から極東国際軍事裁判が行われ、戦争責任が追及された。
 まず、「戦争犯罪」の定義が曖昧。米軍機による主要都市への無差別爆撃や原爆投下は、「無防備都市への攻撃を禁止」を規定した戦時国際法に違反する戦争犯罪のはず。次に、「戦争責任」とは戦争を始めた責任なのか?戦争に負けた責任なのか?それとも戦時国際法を犯した責任なのか?その定義が曖昧。

〇写真〈極東国際軍事裁判(東京裁判)〉:侵略戦争計画者として『平和に対する 罪』に問われたA級戦争犯罪人28名に対する裁判。東京で開かれ、死亡・免訴の3名を除いて全員が有罪となり、東条英機ら7人が死刑となった。天皇・皇族・財界人は訴追されなかった。
 大東亜戦争を一方的に侵略戦争と断じていいのか?また、誰がA級戦争犯罪人に罪を問うたのか?主語が曖昧である。
 天皇や皇族が訴追されなかった理由を述べるべき。また、新聞各社をはじめとしたマスメディアは、世論を好戦・開戦へと導く主導的な役割を果たしたものの、戦後一転してGHQに協力し、言論で戦犯を責め立てた。マスメディアが、戦犯を隠れ蓑にして自らの保身を図った事実こそ明記すべき。



S社日本史B教科書 
  H19.3.22検定済

〇本文(小項目「東京裁判」;17行):1945年、総司令部は東条英機元首相ら39人を戦争犯罪者(戦犯)として逮捕し、1946年5月、容疑を審理するための極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷した。東京裁判にはアジア・太平洋での戦勝国11カ国が参加し、オーストラリア人のウェッブが裁判長となった。裁判では、A級戦犯として起訴された東条英機ら28人の被告①が戦争全般に対する指導的役割をはたしたかどうかをめぐって審理された。裁判のなかで日本軍による侵略の実態が国民の前に明らかになり、1948年11月に結審して東条英機ら7人が 絞首刑となった。また、戦争中に非人道的行為を働いたとして起訴されたB・C級戦犯の裁判②が日本国内や東南アジア各地で行なわれ、日本軍に徴用された朝鮮や台湾の人びとのなかには死刑となった者も多数いた。
 「戦争犯罪者(戦犯)」の定義が曖昧。
 この一節に「東条英機ら7人」を絡めることで、彼らを悪しき侵略者と断じているが、歴史的な評価が定まっていない事実を断定的に述べるのは公定の教科書として不適切。連合国は、東京裁判をWGIPを日本人に普及させる場として利用し、東条らA級戦犯を悪玉に仕立てるとともに、彼らを厳しく処罰することで、戦争に対する罪悪感を日本人の心に植え付けることに成功した事実を教科書は記述すべき。


〇注釈①:28名のうち、病気と免訴の3人を除き、25人全員が有罪とされ、うち7人が死刑となり、1948年12月に死刑が執行された。


〇注釈②:ポツダム宣言にもとづき、通常の戦争犯罪(B級)、人道に対する犯罪(C級)とに分けて、B・C級の裁判が日本国内と連合国側の国ぐにで行われた。 
 「通常の戦争犯罪(B級)」とは、どんな犯罪を差すのか、全く意味不明。


〇写真〈東京裁判〉:被告席の広田弘毅(左から3人目)、東条英機(同5人目)ら。



《参考文献》
『パール博士の日本無罪論』(1952;田中正明;小学館文庫).
『教科に関するアンケート結果報告冊子 進研模試2011』〈㈱ベネッセコーポレーション〉

 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+**+*+

 以上、採択率が高い順に日本史B教科書を並べ、東京裁判の記述内容につちえ検証させて頂きました。訂正が必要なものがあれば、コメント欄でご指摘頂ければ幸いです。

 今回をもちまして、本シリーズ「歴史教科書は「東京裁判」の真実を伝えているのか?」を終了させて頂きます。

 最後までお読み頂き、ありがとうございました。