性別とは | No panda,No life ★ OSAKA

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たまにまじめネタ、基本はおおさか・うろうろもぐもぐのゆるーいブログです。

この地球上に生息する生命体は、過去から現在に至るまでマイノリティを排除してきました。

とりわけ私達人類はその最たるものと言えるのではないでしょうか。異質なもの、少数派等々は排除や抑圧をされ、その不当な扱いに肩身の狭い思いをしてきたと思われます。
本来はもっとマイノリティにも優しい社会であるべきなのでしょう。
しかし、人は自分達と違った生き方や違った考え方、違った習慣などを中々認めることは出来ません。
ですから、そこで民主主義の旗印である「多数決」という方法で、世の中の秩序を作ってきたものだと思います。
そうなると当然マイノリティは排除されていく結果になります。

私は先日「自分ルール」の弊害についてブログに書きました。(※過去記事
実はクライエントさんがそのブログを読まれて、不快を感じると共に不信感を持たれ、連絡をして来られました。そして、これは私の完全なミスであり、その方々から如何に苦情を言われても致し方のないことだと気付きました。
今回はそのことを踏まえ、このブログを書く事にいたしました。
別にそのクライエントさんから言われたわけでもなく、勿論弁明の為でも無く、世間の方に少しでもあることについて考えていただけるきっかけになればと思ったからです。

確かに「自分ルール」を強調すれば、世間の方々と上手にお付き合いする為には弊害になりかねません。ですから、出来ればそれを、世間のルールと擦り合わせることにより円滑な人間関係を築くべきなのです。
そうすることでフラストレーションの溜まる方もいらっしゃるでしょうが、長い目で見たときに、その行為は結果的には間違っていなかったと感じることもあるはずです。

私が件のブログで言いたかったのは、「自分ルール」を多用して余計な揉め事を作るよりも、少しの我慢で円滑な生き方を模索するほうが結果的には楽ではないかと言う事です。
誰でも少なからず我を殺して日常生活を営み、社会に溶け込んでいることでしょう。

ところが、中にはどの様にしても社会に溶け込むことができない方々もいらっしゃいます。
これはその方々が溶け込もうとしていないのではなく、社会がその方々を受け入れるルールを作っていないのです。

その方々は間違いなくマイノリティです。
誰にも言えなかったり、言っても理解してもらえなかったり、理解をされていたと思っていたのに結果的には排除されることになってしまったりと、とにかく社会はその方々を受け入れようとは考えていません。
勿論、一部の方々は受け入れておられるのでしょうが、それはあくまでも個人レベルであり、とても社会的に認知され受け入れられているとは思えません。

皆さんもお聞きになったがあると思いますが、その方々とは医学上の診断名で言うところの性同一性障害の方々です。
他にはインターセックスやトランスジェンダー、トランスセクシュアルとも、両性具有とも真性半陰陽や仮性半陰陽とも言われる、自らの肉体的性別に違和を持つ方々のことです。(今回のブログでのマイノリティとは性的少数者を指します。)

一言で性同一性障害と言っても、言葉が適切かどうかはわかりませんが、私は様々な様態があると思っています。
例えば、肉体は男性で心が女性、そして女性になりたくて男性を好きになる方。このような方はテレビなどにも出演されている「はるな愛」さんのような方です。
または肉体が男性で心が女性でも、ありのままの姿形で男性を好きになる方。これは「おすぎとピーコ」さんのような方です。
これらの方々は、脳の中で明らかに自分の身体的性別に対しての不一致や違和感を持たれている方々です。
必ずしも女から男に、男から女になりたいわけではなく、性愛の対象も女だったら男に向かうとは限りません。
この例などはごくごく一部で、本当は人の数だけそれぞれのあり方が存在すると私は思っています。

この他に、肉体的に男女の区別がつき難い方がいらっしゃいます。(此処で私は敢えて男女の区別と言う言葉を使いました。本来はその方々に対して非礼に当たると思われるので使用したくはなかったのですが、私の語彙が貧困な為に、ブログをお読みいただく方々に対して簡単に説明する良い言葉が見つからなかったのです。お許しいただければ幸いです。)

さて、その区別のつき難い方々に話を戻します。
それは生まれながらにして男女両方の性器を持っておられる方々です。この殆どの方々は生殖力を持っておられません。
ですから、そういった方は自分の性別をはっきりと男か女のどちらかに決めてしまうことに疑問を持っておられます。

そのクライエントさんは私に「性別は必要なものなのか?」と聞かれました。
私がその答えに窮していますと、「私は男と女のどちらに見えますか?」と言われました。
私はその方の顔を見て、正直な所どちらの性別にも見て取れました。女性としても綺麗ですし、男性としても涼しげな眼差しでイケメンと呼ばれる類に見えました。
その方は元々女性として育てられ、ご自身も何の疑いも無く女性として生活をされてきたのですが、年齢を積み重ねるごとに段々と男性ホルモンの分泌が多くなり、ご自身の中で肉体が明らかに男性化していることに気付かれたようです。
でも心は女性で、これからも女性として生きていきたかったのにどうすればよいのかということから、男と女とは何かということに行き着き、性別そのものに疑問を感じられたようです。

医師や周りからは、手術をする事で性別をどちらかに決めることを勧められたようですが、ご本人はその行為に対して違和感があるようです。
何故ならば、手術をするということは、自身が不完全であるという事を認めることになるような気がするという事のようです。

私の知る限り、このようなケースでは医師や医療機関は殆どが男か女として生きる事を勧めておられます。その理由は癌になりやすい事であるとか、その他にも医学的に見て肉体に良い影響を与えない事があるからです。

その方が私の所に来られた理由は、自身の性別のことと、生き方についてという自己のアイデンティティそのものにかかわる疑問を払拭する為だったようですが、私には荷の重い事案であると共に管轄違いということもあり、その事を正直にお話した後、一緒に考えてみることを提案しました。
たまたまその方のご両親よりも私の年齢が上ということもあり、提案はすんなりと受け入れていただけました。

只、一緒に考えると申しましても、私にはありきたりの事しか話せませんし、結局、最終的に決断をするのはその方であることは間違いありません。そこで私はその方と討論をする事にいたしました。
その方がどの様に生きていくかを私に話し、それに対して私が反論をし、又その反論の反論を考えるというような方法です。
その中で、やはりどちらかの性を選ばなければ、生きていく事に対して非常に困難なことが幾つか確認されました。

日常生活で言えば、手洗・風呂等、あとは普通に就職する場合、企業の就業規則などで問題が生じる場合がある事や、例え問題が生じないとしても、やはりそれぞれの部署に配置されるときに問題が起こる可能性がある事等です。
私としましては、それらの諸問題に対しては対処の方法も浮かびませんし、また私が何かを言う立場には無いと思いましたので、最終的には「自分らしく生きる」事をお話いたしました。

どの道を選ぼうとも、これからもその方には不断の苦しみや葛藤が続くことには変わりはありません。それは私などでは想像もつかないほどの境涯なのでしょうし、ともすれば世間の殆どが敵に思えるかもしれません。
であれば、これは私の願望でもありますが、自分らしく生きる事で乗り越えていくしかないと思うのです。そうすることで誰かに認めてもらえるのではなく、自分で自分を認めてあげて欲しいのです。

考えてみれば、世の中は全て男女を基本とした価値基準が強固に存在しています。多くの人は何の疑問も持たずにそれを受け入れており、問題となる事もあまりないでしょう。それが間違っているという気はありません。
わが国では、男女雇用機会均等法が制定されてから約30年になりますが、未だにともすればその問題が浮上いたしますし、パワーハラスメントやジェンダーハラスメント・セクシャルハラスメント等も言葉が独り歩きし、それを提唱しているはずの人までもが内容を把握せずに、その行為を行って謝罪する有様です。
そう考えると、前述の方々の事に世間の考えが至るまで、一体どれ程の時間がかかるのかと思うと正直気持ちが重たくなります。

東野圭吾氏は小説の中で「男と女は両極にあるのではなく、延長線上にある」と書かれ、その説明として「男と女はメビウスの環の上にある」と述べておられます。
私も医学上で性同一性障害と名付けられた何人かの方とお話をさせて頂きましたが、誰一人として同じ立位置にはおられませんでした。あり方は人それぞれです。
性別を超えて生きることは、本来個人の自由であるはずで、現在の社会の枠組みに当てはめることは生き方の選択の幅を狭め、妨げているのではないかと思います。

とりとめの無い文章になってしまいましたが最後に。

差別や偏見で自分と違う他者を排除するのではなく、多様の価値観やおかれている状況を認めることで円滑な世の中になればよいと思っています。





それでは。