僕の私の「自分ルール」って? | No panda,No life ★ OSAKA

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つい先日のブログもですが、これまでにも「権利」と「義務」について書きました。

これは私自身が子供を育てるときに使おうと思った言葉でもあります。
しかし、私は子供に「義務」を果たせと言った事は一度もありません。

と申しますのも、私自身子供は「権利」を主張するだけでよいと考えているからです。ですから、大人は子供に対して「義務」を果たすだけで、「権利」は主張するものではないと思っています。
だからと言って勝手気儘な子供に育てるという事ではありません。
親が愛情をもって育てれば子供は必ず自分なりに考え、して良い事と悪い事の区別をし、しっかりと成長します。
しかし、親の側に打算があったり、親の都合で愛情に大小や歪みがあれば子供はそれを敏感に察知し、段々親との距離を置くようになっていき自分勝手な行動をとるようになるはずです。
一方、まっすぐな愛情を持った親に育てられた子供は、当然「義務」をきっちりと果たせる大人になるはずです。

私が思うに、世間の人々が自分の義務をしっかり果たせば、権利などというものは世の中に存在しない事になります。
そうなれば無用な軋轢も無くなるでしょうし、納得のいかない不平等感を感じなくてもいい世の中になるはずです。

前置きは此処までとして、今回は「自分ルール」についてお話をしたいと思います。

この世の中に存在する全ての人は「自分ルール」を持っています。
これは特別な事でもなんでもなく、たまたま自分が決めたこととか、なんとなく行っている習慣、家族・家庭から受け継いだ慣習などもそうです。

ご存知のように世間には「一般常識」とか「グローバルスタンダード」と言われるものがあります。

社会で生活するそれぞれの人が「自分ルール」を主張するとそこには当然軋轢が生じます。
もしそうなった場合、私もそうですが、皆さんも自分の中で「自分ルール」と「一般常識」等との摺り合せをし、どのあたりまでの主張が通るとか、どのあたりまでであれば他人の主張を聞ける等といった線引きを知らず知らずのうちにしているものです。
それが集団生活で生きていく知恵というものです。
活字にすると面倒なことのように思えますが、これらは大抵の方々は無意識にこなしていることです。

しかし、最近私の所に来られるクライエントの方々や、カウンセリングとは別に知り合った方などもそうなのですが、どうも「自分ルール」に対する考え方に偏りがあるように思います。

「自分ルール」が自分の中で「一般常識」に置き換わっていく訳です。
そうなると「イコール自分(の価値観)が正しい」と思い込んでしまうようなのです。

ある方などは寸毫の疑いも無く「自分ルール」を主張します。
当然そこには軋轢が生じます。
そのときに何故軋轢が生じたかを考えず、まず最初に「何故あの人たちは私の考えが理解できないのか。」と相手がさも非常識であるかのように怒ります。
これでは纏まる話も纏まりません。

此処で考えなければならない事は、世の中に「正しい事」は存在するのかということです。
今は知りませんが、私の幼少の頃は「正しい行い」という言葉が道徳の本に載っていたことを覚えています。
しかし今考えると、「正しい事」とは一体何なのでしょうか?
私は、物事をどの角度から見るかによって、そのどちらにも裏と表のあること、またそれぞれの時代や国や宗教によってもそれらは大きく変化するものであるという事を大人になって嫌と言うほど知らされました。

当たり前の事ですが、物事には「善」・「悪」があります。
これがどういう訳だか、ある方々には「正しい事」や「間違った事」に置き換わっているように思います。

一般常識や世間基準は誰もが自分の中でプラスマイナスの判断をしながらも一応納得できることが前提になっているはずです。

ところがある方は「多数決はおかしい。多数よりも少数の意見の方が正しい場合があります。」と仰います。
これもおかしな話で、この方は多数決の意味を全く理解できていません。
多数決はそもそも何が正しいとか間違っているとかを決めているのではなく、ある事柄を決めるときなどに、多数の方がどの様にしたいか意見を収斂させるルールであるはずです。
それに対して、少数でも正しいことがあると言い出したら、それこそ「自分ルール」を他人に押し付けようとしている事にしかなりません。
「自分ルール」に則って勝手に「正しい」「間違っている」と判断しているだけで、それは何の論理的根拠に基づくものでもないわけですし、多数決が何の為にあるのかという根本を全く無視していると言えます。

少し話は逸れますが、先日私は交差点で自転車に乗って信号待ちをしていて面白い光景を目にいたしました。

皆さんもご存知のように、同じ方向でも車道と歩道では青信号の時間が違います。普通は車道の方が長いものです。
私が見た光景と言うのは、3人のOLが横断歩道の信号が明らかに赤になり始めた状態で渡り出しました。片側二車線の道路ですから横断するには15メートル以上歩かなければなりません。
ところがOL達はのんびりと話をしながら横断しています。
右折を待っている自動車が5台いました。先頭の運転手がイライラしたのかクラクションを鳴らしました。
するとそのOL達は、急ぐどころか立ち止まりその運転手に文句を言い出しました。
しかし、運転手の方が頭が良かったのか口が達者だったのか、OL達に対して「モラルも無くマナーの悪い人間ほど人を非難して自分の悪い事に気付かん。恥ずかしいと思え。」と大声でまくし立てたので、OL達は恥ずかしかったのか危ないと思ったのかわかりませんが、それ以上の文句を言わずに横断歩道を渡りきり私の前を通り過ぎていきました。

彼女達の気持ちとしては、歩行者信号が赤であろうが、自動車信号はまだ青だし、自分達は横断歩道を渡っているのだという気持ちなのでしょう。
これなども「自分ルール」が「自分勝手」に変化したものだと思います。

実はこういった場面にも「権利」と「義務」は発生しているのです。

冒頭に述べたように、一人一人が自分の社会人としての「義務」を果たせば、彼女達は交差点でこの様な無様な醜態をさらす事も無かったと思うのです。
“信号は青で渡る”
このことは小さな子供でも知っている事で、決して「正しい事」ではなく当たり前のことなのです。

「自分ルール」を持っていることは何も悪い事ではありません。自分を律する為に活用するのであればとてもよい事だと思います。
しかし、その価値観を振り返ってみることなく自分中心のまま他人に押し付けたりすれば、「自分ルール」は「自分勝手」に変化してしまいます。

一度本来自分が果たさなければならない「義務」とは何かを考えてみると、これまでとは違った目線で物事を捉えるようになるかもしれませんね。





ほな!