東博で今週末まで開催されている『王羲之と蘭亭序』行ってきました。

 

東洋館の8室、人はまばらでゆっくりと見ることが出来ました。小声ながらやや興奮気味に語っている声の先には、中国の人たちの集団。先生らしき人が、閲覧しながら生徒さんらしき人に、熱心に説明しています。中国語の勉強と思って、となりで聴いていました。

 

『王羲之の蘭亭序』ではなく『王羲之と蘭亭序』とは、言い得て妙なそのタイトル。

蘭亭序は王羲之が書いたのですが、本物は一つもないのです。正確には、『王羲之を愛した人たちの蘭亭序』になるでしょうか。

 

その境地を感じようと、これほどまでに臨書された書はないのではないでしょうか。当然、真筆がなくなって以降は、臨書の臨書、そのまた臨書、拓本で臨書、、、きりがありません。

 

師曰く、『蘭亭序』を見るなら、定武本がいいとのこと。

これまでに歴代の超一流の書家たちが名立たる臨書を残しているわけですが、それらをじっくり見比べると、全然違うのがわかると思います。

 

つまりは『書きぶり』が違うということなのですが、どう書こうが内容としては同じ文字にもかかわらず、そこに書きぶりが加わることで、雰囲気が違ってきます。

 

その書きぶりのおかげで、爽快だと感じるか、繊細だと感じるか、ほんわかするのか、身が引き締まるのか、書いた人物の何かがのっかる、何らかの情報が加算されるわけですね。

 

これはどんな芸術にでも置き換えられます。絵なら『描きっぷり』、歌なら『歌いっぷり』、同じものを見て描こうが、同じ歌を歌おうが、人が変わればまるで様変わり。

芸術のみならず、『ふり』こそが、すべてにおいて自分らしさの表現ということ。

 

『人のふり見てわがふり直せ』と言いますが、心法書道は、『人の書きぶり見て、わが書きぶり直す』ことで、わがふりまで直るということです。うまいこと言う(笑)

 

これまでの素晴らしい書家たちが、羨望してやまなかった『蘭亭序』、それぞれの書きぶりにその人物が表現されています。本物が見たいなぁ。

 

定武蘭亭序