おはようございます。

今日はプーマのシューズ発売の日ですね。
並んでいるD友さんから、プーマショップの方からカイロの差し入れがあったと画像が送られてきました。
やさしいですね~~~。







高橋大輔ピンクマンボJspoのコラム

【髙橋大輔時代から引退まで】を佐野稔先生と振り返る

http://www.jsports.co.jp/press/article/N2014112118432906.html

J SPORTSがお送りするフィギュアスケーターのオアシス♪KENJIの部屋11月のゲストは髙橋大輔さんです。11月25日のエピソード4放送の前に、【髙橋大輔時代】を佐野稔先生と振り返ります。


男子シングル『第一次四回転時代(6.0ポイント制時代)』
2006年トリノ五輪前


技術を駆使して芸術を魅せる「表現力」の総帥である髙橋大輔さんは、アスリートの中のアスリートでもあります。
ロベルト・カルロス並に弾む、全身バネのような恵まれた体躯から、右膝前十字靭帯断裂後の奇跡の肉体改造を経て、23歳から、バネは鋼鉄と化しました。一方で、筋肉ではなく関節に柔軟性を持たせ四肢の可動域を増すことで、しなやかさは力強い華となりました。
165cmと小さな体で大きな怪我を乗り越え、弾性とパワーという相反する肉体を身一つで極めたそのフィジカルは、「小さい頃から突出していた」と佐野先生は回想されます。

【佐野先生が見た髙橋大輔時代(1)】
僕は大輔が中学生の頃に教えたことがある。その時に「まあ、なんと素晴らしい感覚だ!」と。『ジャンプを飛ぶ能力』!「これは凄いものを持ってるぞ!」っていう子だったんだね。

確かトリプルループだったと思うんだけど、「やったことない」って言うから「こうやってこうやってみ。」って口で説明したらポンッと飛んだの!合宿の4日間の内に出来ちゃった。「そんな奴が世の中にいるのか」ってビックリしましたね。(その後、佐野先生の手引きで長久保裕先生の指導も受ける。)
トリノ五輪前の男子シングル界にはプルシェンコをはじめ、日本には本田武史・(当時指導されていた)田村岳斗もいた。その日本男子の後を継ぐ存在で、ジャンプやステップで物凄い素質を持っていながら力を出し切れない、「精神面が弱い」という印象がありましたね。……だからなんて言うかなー、その頃はいまひとつ、僕も褒めていなかったと思う(笑)大輔が本当に良くなったのは……これから後の話だね(笑)

……と癒し系な佐野先生が語る「物凄い素質」は、19歳のトリノ五輪シーズンに世界で開花します。
2005年スケートアメリカでISUグランプリシリーズ初優勝・グランプリファイナル初出場3位・全日本選手権初優勝・2006年トリノ五輪8位入賞と、シニアの階段を一気に駆け上りました。
SP(ショートプログラム)『ロクサーヌのタンゴ』FS(フリースケーティング)『ピアノ協奏曲第2番(ラフマニノフ)』の演技では、四回転は決めていないものの、リズムの裏を刻む踊り、陸のダンサーに敗北感を与えるクラスの頭のアクセント(首を動かして、頭と体の動きを違えることで踊りに表情を出す)、動きで音楽にアレンジを加えるレイバックスピン、情念を発する一挙手一投足、とおなじみの髙橋大輔さんの姿があります。
怪我をする前の、制すことのないスピードと弾けるジャンプには、触れることの出来ないような19歳のアツさがありました。

男子シングル『冬・四回転時代』
トリノ五輪後~バンクーバー五輪


新採点システム(ISU Judging System)対応型の「得点を積算していくプログラム」が奏効したこの時代は、髙橋大輔さんにとって飛躍と(怪我による)挫折と栄光のステージでした。

【佐野先生が見た髙橋大輔時代(2)】
僕が最初に大輔を見た頃は「ジャンプのすげぇ子」という印象だった。でも次第に、この頃になると「表現したい」という本人が持っていた気持ちが出て来たんでしょうね。同時に「弱っちぃ大輔」はいなくなった。
それでも、2007年の世界選手権銀メダルは驚いたね!僕が初めて銅メダルを取って(1977年・東京)、本田武史が銅メダルを取る(2002年・長野、2003年・ワシントン)まで四半世紀かかってるんだから!そこから4年で銀メダルを取った。バンクーバー五輪の銅メダル(2010年)、世界選手権金メダル(2010年・トリノ)……結局、髙橋大輔という男は、『日本男子の歴史を全て塗り替えた男』なんですよ。

僕はアイスショーで「フィギュアスケートは、音を表現すれば成立する」と思ってやって来た。演歌を使ったこともある。「雨だれ」でも、音を表現出来ればフィギュアスケートは成立するんですよ。「音楽のジャンルは問わない」、それがフィギュアスケートだと考えていた。だからあのヒップホップの『白鳥の湖』(2007-2008SP)は「出来るじゃんーーーー、ここまで!」って。髙橋大輔だから表現出来た。「こういうフィギュアスケートを待ってたよ!」というものでしたね。

男子シングル界は6.0ポイント制と新採点システム(ISU Judging System)の端境期だったんだけど、四回転に挑戦しても「6.0のスケート」から抜けられない選手がいた中で、大輔は四回転も入れながら非常にうまく乗り切った。6.0時代から持っていたエッジワーク(スケーティング、ステップ)の正確さが活きたんじゃないかなと思いますね。(2008年四大陸選手権のフリーで2回四回転を決め総合得点「264.41」の当時のワールドレコードを打ち立てる。)

バンクーバー五輪の前のシーズンに怪我(右膝前十字靭帯断裂)をして、そこから大輔は「一選手」から、「日本の大黒柱」一家で言えば「親父」的な存在になったんじゃないかな。髙橋大輔を皆頼りにして、日本スケート界が大輔を中心に回っていたと思うんですがね、私は。あの怪我を乗り越えたことで、精神的支柱、『皆を支える強さを持った男』になった。

【冬・四回転時代の名演技】
・佐野先生も「待ってました!」の『白鳥の湖』(飛躍を遂げた2005-2008シーズンに師事したニコライ・モロゾフコーチの振付)や2007-2008EX(エキシビション)KENJI先生振付の『Bachelorette』の革命的な演技
・バンクーバー五輪シーズンの集大成的な演技で、得意のタンゴをスタッカートにもレガートにも魅せたKENJI先生振付のSP『Eye』、怪我から立ち上がれたその希望と強さを、笑いと優しさで描いていったFS『道』(パスカーレ・カメレンゴさん振付)……

と全部振り返りたいところですが、フィギュアスケートの醍醐味をもたらしたのが日本人初の銀メダルに輝いた2007年世界選手権FS『オペラ座の怪人』の演技です。

*2007年世界選手権FS『オペラ座の怪人』(ニコライ・モロゾフコーチ振付、フリー1位)*
ショートを終えて3位で迎えた最終グループの5番滑走。上位を争う選手達の好演技が続き、会場の東京体育館は髙橋大輔さんの登場で最高潮を迎えます。
スタート位置に着き『Masquerade』のオルゴールが流れる間、息を整え緊張を鎮める21歳のファントム。ファントムのテーマが始まると1回転して気高く両手を広げ開演を告げます。冒頭の四回転こそ片手を付きますが、様々な曲に合わせて移り変わるシーンのように、2本のトリプルアクセル・スピン・ステップでオペラ座の怪人の舞台が目くるめく展開していきます。
情感を送りながら烈火のごとくジャンプを決めていく「泣き」のメロディーの『Point of No Return』に続く魅せ場。ラストのステップの始まりに正体(醜い顔)を暴かれるファントム。憎しみや哀しみ、抗えない愛に苦しむファントムの演技に、東京体育館が一つになります。手拍子でファントムを支える会場。応援が物語を盛り上げるというフィギュアスケートの他にはない得難い瞬間が訪れた後、仮面を外したファントム、髙橋大輔さんの目から涙がこぼれました。

男子シングル『鬼・四回転時代(第二次四回転時代)』
2011年世界選手権~


パトリック・チャン選手が髙橋大輔さんのワールドレコードを16.57点押し上げ総合得点「280.98」をマークした2011年世界選手権から、男子シングルは再び四回転時代に突入します。
2010年全日本選手権で、心技体が揃わない中FS『ブエノスアイレスの冬』でショーマンシップを燃やしショート4位から総合3位となり、その世界選手権に出場。
御本人が「惨敗(フリー本番で靴の故障があり総合5位に)」と評した2011年世界選手権は「これからの3シーズンは、みじめなものになるかもしれない。でも、ソチまで続ける。」と決起した試合でもあります。

新シーズンに入った2011年秋のインタビューの、その決意の言葉です。
「昨シーズンのモスクワ世界選手権で惨敗して、すごく新しい気持ちになって!若手も伸びて来て、実力のある選手も台頭して、ソチに行けるかどうかも分からない今、『これから3年間、どうやって自分は戦っていこうかな?』というのが新たなモチベーションになっています。若い子に、はじっこに追いやられるかもしれないけど(笑)『3年後、自分はどこのポジションにいるのかな?』と楽しみにして。新しいことに取り組んで、自分に対する期待感で一杯です!……みじめになっても、やるだけのことはやって。だめだったら『……だめだった!』で、すっきりすると思います。これからソチまでの3年間は、今まで以上に大事な3年間になります。そう意識出来ているからこそ取り組めるのかなと思います。」

期待通り、自己ベストも12点以上更新し、3シーズンをかけ「ショートとフリーで四回転3回」のトップクラスの構成を完成した矢先、競技人生の大詰めで襲った怪我。右膝の古傷に受けた痛みを負いながら、全日本選手権、ソチ五輪と演じ切りました。
「自分の人生の中でもきっとおもしろいシーズン」。それが最後の【髙橋大輔時代】でした。

【佐野先生が見た髙橋大輔時代(3)】
大輔のスケーティングはテクニック。年齢的に若くて「馬力(筋力)」が上のパトリックとはイメージが違うけど、伸びがある。2012年のグランプリファイナルでもパトリックに勝った。この時点で僕は、オリンピック銅メダル、世界選手権金メダル、ファイナル金メダルを取った大輔は「本当によく頑張った」と思ってたんだ。 そこからソチ五輪シーズンに入って、NHK杯の「すげぇーーー演技」で五輪代表選考基準で優位に立った(ワールドランキング日本人2位・シーズンベスト世界3位)後に怪我をして……全日本もオリンピックもよく頑張った。怪我のない状態で花道を飾らせてやりたかった。

……逆に言えば、それが「大輔らしい」のかもしれない。

誰しも選手としての「辞め時」がある。髙橋大輔が選んだ辞め時は、(バンクーバー五輪シーズン後やグランプリファイナルで優勝した)「自分が一番上にいる時」じゃなかった。「もぅーーーーだめだ!」っていう限界まで頑張った。
ソチ五輪でも日本人が大輔を乗り越えて行った。
「もう俺がいなくても日本男子は大丈夫だな」と、それは物凄く「カッコイイ辞め方」だと僕は思うんだよね。
男が一番華々しい時に栄光を掴んでスパッと辞める、それも一つの辞め方だけど。
ここまで引っ張って来た自分自身を後輩達の土台にして「あとは頼むぜ!」って辞めていく、それは男としてカッコイイやり方でしょうね。……僕は一番良い時に辞めたから(笑)今とはアマチュア競技を取り巻く環境が違ったんだけど。
引退の発表も(地元)岡山で発表して、そういうところも「大輔らしい」のかもしれない。
これからもずっとそんな「髙橋大輔」を演じてほしいっていうかなー、そのまんま今まで通り出して生きていってほしいと思いますね。「もし悩むことがあったらいつでも連絡して来い!」

(髙橋大輔さんの一番好きなところ)「優しい」ところかな!(笑)人に対して優しいんだよ、アイツ。……俺もそうだけどね(笑)男は人に優しくなきゃね!

【鬼・四回転時代の名演技】
マンボ、タンゴ、コンテンポラリー、ブルース(陸のダンサーにも至難の「抜け」感を表現)、ロックンロール、クラシック、オペラ、ビートルズ……
と多様な音楽と多彩な踊りを一つ一つ見比べて味わいたいところですが、2012年全日本選手権FS『道化師』の演技にはまたもうひとつのフィギュアスケートの醍醐味がありました。

*2012年全日本選手権FS『道化師』(シェイリーン・ボーンさん振付、フリー1位)*
ショートで四回転にミスがあり、1位羽生結弦選手に9.64点離されて臨んだ最終グループの1番滑走。演目は道化師の性や苦悩を描くオペラ。
何があってもショーを続ける道化師の壮絶な生き様を歌う『Vesti la giubba』。怪我をしてから決まっていなかった冒頭2回の四回転を降りると、会場は一気にオペラ『道化師』の「夢とも現実ともつかない世界」に入り込みます。
ポージングを連続させる激情的な振付を、無重力のようなスケーティングで止まることなく流れるように魅せていく、26歳となった道化師。陸では不可能な踊りと成功を重ねるエレメンツに会場は昂ります。愛を失った道化師の絶望がフィナーレの『No! Pagliaccio non son!』のコレオシークエンスで放たれ(情熱のあまり振り付けたタイミングより早まり、1歩目が楽器を率いる形になった髙橋大輔さん)、道化師と会場はカタルシスを迎えます。
スポーツが生み出す勝負、心技体を鍛錬し尽くしたトップアスリートによるフィギュアスケートならではの演舞。最後のスピンで舞い落ちた(1ポイント減点となる)衣装の手先の彩りのひとひらは、「このショーを忘れないように」という運命の計らいにも見えました。

テキスト・インタビュー:島津愛子 Aiko Shimazu












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