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風琴工房詩森ろばのブログです。

すごく昔に読んだ新聞のコラムで、
なーるほど、と思ったことがある。


それは、
受験に関して書かれた記事で、
勉強の成績を中心にした受験はどうなのか、
というお題に対して、
「受験がそれ以外の要素も重要視することのほうが
問題なのではないか。」
と、そこには書かれていた。


まあそうね。
と思ったんだよね。


かなり前、
どこかのお芝居で、
生徒の成績をすべて「優」で統一したことで、
大学罷免された教授の話があった。


実際のモデルがいたようにも思うけど、
いま調べてもちょっとわからない。
そのときに、
成績を統一するっていうのは、
むしろ学力というものを絶対視しているから
起こることなんじゃないか、と思ったのであった。


もっともそのお芝居は、
学生闘争も絡んだお芝居だったように
記憶しているので、
その成績をぜんぶ同じでつける
というのが、
何に起因してたか忘れてしまっている。
成績が悪いとなんらかの不利益を生徒が得る
とかそういう事実があったのか、とかそのあたりが。



話が飛ぶが。



わたしは、
小学校なんかは学力別クラスにしたほうが
いいんじゃない、などと前から思っている。
これ言ったら
「差別だ!!」
って言われそうだよね。
ここまで読んで、
そう思った人、いるよね。



わたしがそう思うのは、
学習速度をなるべく個別対応できる体制を作ることで
ハッピーに学べる環境を作れるんじゃない、
と思うからなんだけど、
それをうまく実現するためには、
「勉強できることが優れたこと」
「勉強劣っているのはダメなこと」
っていう価値基準を変えることが必須なワケです。
だって能力別でいちばん下のクラスになったら
いまの社会じゃ傷つくばかりでしょう。
そんな中で、能力別の学習体制なんて無理だよね。




学習能力が高い=人間的な能力が高い、
とはまるで思わないけど、
そのひとなりに学習するよろこびを知ることは、
権利だと思うし、必要だと思うし、
人生をいろんな意味で助けてくれる、と
思うんだな。
いまの学歴社会のあり方は、
高度学歴社会なんて言いながら、
学習弱者を助長するやり方しかしてないでしょう。
価値観を転換したほうがずっといい気がするんだよね。


勉強ができないは、劣ったことではない。
ただし勉強の方法や喜びを知ることは
万人にとってわりとよいこと。


いま、逆じゃないですか。


勉強できるはとても優れたこと。
勉強の方法やよろこびは特に人間の権利ではない。



また話が飛びますが。



いま、平等主義とか言って、
なるべく能力の優劣を感じさせないように育てて
でも現実は競争社会なのにさ、
みたいな論旨をよく見ますけど、
競争社会のほうを変えてみるか、
という考えはどうも浮かばないっぽいのは、
きっと、
学力が高いことや、
競争して勝ったひとが人生の勝利を納める
という社会のモデルが
なんだかんだと
いちばん納得のいくものだからなんだろーなー。



というワケでまとまりはつかないまま終わるワケですが、
ひとが至極あたりまえに言う意見に対して、
ほんとにそーかなー、と考えるの、好きです。
ときどきびっくりするようなことに気づきます。