朝鮮半島の高麗末期、高麗女性は元への貴重な貢物だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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元に支配された高麗末期、高麗の女は貴重な貢物として良家の娘から選ばれて元に送り込まれたままになったとか!また、元寇においては、現地人、すなわち日本人の子女を拉致して高麗王に献上していた。

すなわち、高麗末期、高麗人の女性は元に送られ、代わりに高麗国内へは戦利品として異国の子女を拉致して来ていたことになる。拉致した子女は奴婢であり、奴婢の子供は例え高麗人の子種由来でも奴婢とされた。

この史実が示唆することは、高麗国内は徐々に純粋の高麗人女性は減って、異国人女性のDNAを受け継いだ奴婢が増加することになる。彼ら奴婢は当然、異国人女性がルーツの奴婢に育てられるであろうから、高麗の文化は彼らに受け継がれることなく消えて行くことになる。彼らの言語についても母親の影響を受けて大幅な変更が加わるであろう。

高麗が李氏朝鮮に移行した原因をこれに求めることは可能であろう。高麗時代の奴婢が李氏朝鮮の支配階級(太祖 李成桂を支える両班など)になり、高麗時代の支配階級や良民がそのまま賎民になったのである(参考)。現代朝鮮人の内臓肉食の文化はモンゴル族やエベンキ族の食文化(参考)であるが、Y-DNA の観点では朝鮮民族は漢民族などに近く、特にエベンキ族とのつながりは見出せないが、例えば、拉致して来たエベンキ族の女性の子孫が現代朝鮮民族と考えれば辻褄があう。

高麗の女性の社会的地位が高かったと言う史実も、以上の議論を支持する。すなわち、生粋の高麗の女性は男性に対し比較的少なく、貴重であったのである。


参考

① モンゴル帝室に女性を献上していた「高麗時代の朝鮮」

日刊SPA(2014.9.11、参考)

{04782577-2872-4A12-9607-F24DA5956BC6}(イメージ/韓国・安東)

東京・新大久保界隈では、韓国料理店や商店の相次ぐ閉店に「韓流離れ」の加速が報じられるなか……NHKでは韓国時代劇の新シリーズ「奇皇后」(8月3日放送開始/BSプレミアム毎週日曜夜9時~)が始まった。

韓国時代劇においては、「その歴史改ざん願望がドラマに凝縮されている、もはや韓国の歴史=脚色されたファンタジー」(東洋史家・宮脇淳子氏)と、史実の都合のよい歪曲が指摘されがちな昨今の背景を慮ってか、番組HPには、「実在した奇皇后の人生をダイナミックにアレンジし、感情を揺さぶる愛と闘いを壮大に描いたエンターテインメント・ロマンス史劇」「このドラマは実在した奇皇后を題材に創作したものです。架空の人物や事件を扱っており史実とは異なります」と、念の押しようだ。

ストーリーは――13世紀末から14世紀中頃。

モンゴル人による王朝・元に服属していた高麗(コリョ)に生まれ、元への貢女(コンニョ)という境遇から皇后にまで上り詰めた女性「奇皇后」が主人公。「元の皇帝、そして高麗の王、ふたりとの運命的な愛。その美しさと野望、才覚で強国・元を揺るがしながら、決して失わなかった高麗人としての誇り―」(番組HP)元と高麗という二つの国家と両国の男の狭間で生きた女性の、波乱の人生が描かれているという。

早速、見てみると…… 主人公で高麗の少女ヤンは元への貢ぎ物「貢女」として、母や多くの女たちと共に連れ去られる途中、逃亡するが、ヤンの母は追ってきた元の将軍に殺されてしまう。ヤンは身を隠すため少年に姿を変え生き延びていく。父母ともに元の圧政による無念の死を遂げたことで、少女ヤンは元への強い復讐心を抱いている。というわけで、登場するモンゴル人たちは、徹底的な悪人に描かれる。「この高麗人の目玉をくり抜き、耳を削ぎ、舌を抜き、生かしたまま見ることも話すことも聞くこともできぬようにするのだ!!」とのむごいセリフの後、焼きゴテがあてられ……ギャアアアーーー!!!……と韓国時代劇によくある凄惨な拷問シーンも頻繁に登場する。土足で高麗の地を踏みにじり、朝鮮の女性たちを略奪、凌辱する元の兵士、という構図が強調されている印象だが……実際、元朝と高麗との関係はどのようなものだったのか。

内モンゴル出身のモンゴル人で静岡大学・楊海英教授(歴史人類学)が解説する。「正直なところ、モンゴル人の歴史観では、かつて朝鮮半島はモンゴル帝国の属国であり、モンゴルの血統で権威を確立していた国であるという印象があるのは事実です。同様に、清に対しても戦争に敗れて臣下の礼をとり、属国となったことは史実として残っています。ほかの朝貢国と比較すると、朝鮮半島の場合は代々シナ王朝の『属国』であった実態が伴っているのです」

また、高麗時代の朝鮮がモンゴル帝室に女性を献上していたというのは驚きだが、これは韓国ドラマが得意とする創作上の悲史などではなく、史実にあるのだという。「元朝時代では、高麗は長らくモンゴル帝国のハーン一族、帝室の『婿殿』の立場でした。代々、大都(北京)のモンゴルの帝室から娘を貰って、高麗王の皇后としていました。その子供が新たに王になれば、再びモンゴルから妻を娶るのです。元朝はそのような方法で、朝鮮半島をコントロールしていました。一方、高麗側は常にモンゴルの歓心を得ることに心を砕いていて、日本に対する二度の『蒙古襲来』も、最近の研究ではフビライの娘婿である高麗・忠烈王が、義父の前で手柄を立てたかったので、やたらと侵略を進めたことがわかっています」

ドラマにも登場する「高麗貢女」という仕組みは、そんな高麗のしたたかさから生まれたのだという。「朝貢の一環として、朝鮮の良家の娘たちを集めて元朝の帝室に差し出すというもので、高麗貢女は、例えば宮廷に入って皇后や王族のそばで働きながら、できうればそこでエリートを見つけて結婚することが望まれていました。帝室内に高麗の身内を送って発言力を増していこうという、高麗なりの生き残るための術だったのだと思います。儒教思想のもとでは女性の地位が低いので、そういう発想が生まれたのでしょう」

しかし、これは「モンゴルが強制したのではなく、高麗側が自ら進んで編み出したシステムであった」と楊氏。モンゴルも実は高麗の魂胆をわかっていて、王族は高麗貢女と結婚してはいけないというしきたりがありました。モンゴルの大ハーン一族は、代々通婚する有力な部族があるので、必ずそこから后を選んでいたのですが、元朝最後となる皇帝・順帝トゴン・テムルが高麗貢女(奇皇后)を后としてしまいました。元朝が滅んだのはそれが理由だとモンゴル人は信じていて、モンゴルの年代記にも、元朝が滅んだのは祖先のしきたりを破って高麗貢女を貰ったからだと記されています。史実としてはそうした側面もあります。その高麗貢女は、モンゴルのしきたりを無視して後宮で権力を振りかざしたので、帝室に対する王族の離反を招き、ひいては反乱が広がっていったのです」

奇皇后が産んだ北元の皇帝・昭宗=アユルシリダラは後に明軍に追われ、カラコルムの地で没したという。そして、不詳とされる奇皇后の末路は、ドラマではどう描かれるのか……。韓流時代劇は、“真実の歴史” を知った上で観れば、もっと面白い! かもしれない。 <取材・文/日刊SPA!取材班>

●「奇皇后」番組HP http://www9.nhk.or.jp/kaigai/kikogo/
●『狂暴国家 中国の正体』楊海英 著(定価760円+税/扶桑社新書)
●『韓流時代劇と朝鮮史の真実』宮脇淳子 著(定価760円+税/扶桑社新書)


② 貢女(朝鮮語공녀、コンニョ、wikiより)

一般に女性を朝貢品の1つとして献上することである。帰国が出来た女性は国内でも還鄕女(朝鮮語환향녀、ファンヒャンニョ)として蔑視・差別待遇を受けた。 5世紀に高句麗・新羅から中国の北魏に送ったという記録があるが、朝鮮半島から貢女の献上が最も盛んに行われたのは高麗後期から李氏朝鮮時代にかけてだったため、ここでは高麗と李氏朝鮮時代の貢女について説明する。

高麗

高麗時代の献上先は蒙古(元)、契丹、明であり、貢女だけでなく多くの朝貢を強いられていた。

高麗時代の1番目の資料は結婚都監(ko:결혼도감)を置き、140名の貢女を行い、2番目は貢女確保のために国中の婚姻が禁止されて、3番目に資料では寡婦處女推考別監(朝鮮語: 과부처녀추고별감)という役所を設け組織的に対応していることがわかる。

・高麗史 元宗3、世家第27 高麗史27 元宗15年(1273年)3月
壬寅 元遣蠻子媒聘使肖郁來中書省牒云 "南宋襄陽府生券軍人求娶妻室 故差委宣使肖郁押官絹一千六百四十前去下高麗國令有司差官一同求娶施行" 肖郁令選無夫婦女一百四十名 督之甚急於是置結昏都監 自是 至秋窮搜 閭井獨女逆賊之妻 僧人之女 僅盈其數怨咨大興例給一女資粧絹十二匹 分與蠻子蠻子卽率北還哭聲震天觀者莫不悽
・高麗史 十六 世家巻第二十八 忠列王一 忠烈王元年(1275年)冬の条 10月
癸未 遣僉議贊成事兪千遇如元賀正告改官制獻處女十人
・高麗史 十六 世家巻第二十八 忠列王一 忠烈王2年(1276年)
甲子 元遣楊仲信齎幣帛來爲歸附軍五百人聘妻 王遣寡婦處女推考別監正郞金應文等五人於諸道先是慶尙道屯邊官軍頭目申中書省曰: "高麗人無時乘驛致其疲弱設有他變恐不及時." 中書省移牒禁之始立剳子色應文等各受鋪馬剳子以行.

中国が私的に連れて行ったケースを含めると、献上された貢女は数千人に上るという。中国から貢女を選抜する使臣が訪れると、朝鮮では選抜機関を設置して、巡察使が各地を物色したが、民衆は激しく抵抗し、貢女候補になるや、娘の顔に薬を塗り傷を付けケースや出家させるケースもあり、幼児を嫁がせることまであったという。そのため、李氏朝鮮時代には「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」法令を下した。李氏朝鮮王の太宗8年には、処女30人が選抜されたが、中国の使臣は「美しい女がいない」として罰しようとし、娘たちも指名を避けるため、障害があるかのように装い、太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者」を罰する号令を下した。世宗は、「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、ただ(中国皇帝の)令に従うのみ」と述べた。

李穀(1298年-1351年)が元の皇帝に貢女による高麗国内の現状を上訴している。

1332年、忠粛王は元朝の衰えとともに、元朝への貢女を廃止している。

なお、貢女でありながら、王后(妃)となった女性に
・奇皇后(生没年不詳):14世紀の元朝最後の皇帝である順帝トゴン・テムルの皇后、後の粛良台 完者忽郡
・権賢妃(? - 1410年):明の成祖・永楽帝(朱棣)の寵姫
などがいる。

李氏朝鮮

1618年に後金は明への宣戦布告の前後、李氏朝鮮をお前と呼ぶ国書を送り、『明の戦争に朝鮮は介入するな』と命令した。李氏朝鮮王の光海君はサルフの戦いで後金に敗北したものの、戦後に中立外交を打ち出して国王としての面子を少しは保ていた。しかし、次に王になった仁祖は国力も無いのに1627年の丁卯胡乱で敗北させられた9年後の1636年に丙子胡乱で清(後金の新国号)に挑んで壊滅的大敗をした。仁祖は真冬に南漢山城からホンタイジの下に三跪九叩頭をさせられて、勝者のパーティー後にホンタイジから毛皮を贈り物として受けて「感謝します」と2回膝まずき6回頭を下げて三田渡の盟約をした。最大50万人が捕虜になり、連行されて性奴隷に転落した朝鮮の女性は帰国出来た者さえ還郷女として故国では家門からも捨てられた上にあらゆる嫌悪・差別を受けた。還郷女(ファニャンニョ)は李氏朝鮮では以後淫らな女性を指す言葉になったほどだった。


③ 元寇における子女の拉致(wikiより)

この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。

去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)  — 『日蓮書状』、高祖遺文録

この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。

この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。

同様に元軍総司令官である都元帥・グドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上している。


④ 東アジアのY-DNA 分布(参考)

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エベンキ族の男性はC3が大勢を占めるが、漢民族男性、日本民族男性にはC3は少ない。若干、朝鮮民族男性にC3が目立つ程度。


⑤ 高麗女性の地位(wikiより)

高麗の社会は朝鮮半島の歴史の中では、新羅に続き比較的に女性の社会的地位が高い時代だった。 儒教を国教とした李氏朝鮮とは異なり女性の地位が高く高麗の女性は、夫と死別すればいつでも再婚が可能であり遺産を相続する時も息子と娘の区別がなく、親の葬儀費用も共同で負担したほどだった。 政治や生活全般には男性が優先されたが、財産の分配は、息子と嫁いだ娘とで同等に分配された。また夫に殴られた妻が官憲に告発し、逮捕された夫がむち打ちの刑を受けた事もあった。忠列王の時、朴楡は王に貴族の蓄妾を法律で制度化することを建議した。その後、朴楡は街頭で女性たちに後ろ指を指され、面前で悪口を言われたという。離婚と再婚が自由だったとされるが、特別な理由もなく妻を見捨てると法律によって処罰された。12世紀に宋の徐兢が高麗を訪問した後に書いた『高麗図経』には、「離婚率が高いし、恋愛と別れが多すぎるので、風習がおかしい」と書かれている。 親は娘が両親を扶養するため、娘には愛情を注いで十分に世話をして、早く成長して自分たちを扶養してくれることを昼夜望んでいるほどだった。息子がいなくても、祭祀は娘と婿が行なった。婿取婚の比率も高く、女性は影響力が強かった。


⑥ 現代でも、韓国人男性はカンボジア人女性を人身売買しているとか!韓国人女性は何しているの??

⑥-1 カンボジアでは「韓国人男性との結婚」「日本刀所有」はNG

CHOSUN online(2017.7.29、参考)

チェ・ラクソン記者

「カンボジアで禁止されている10のこと」リストには、韓国の男性との結婚禁止が含まれているという。

カンボジアの現地メディア「プノンペン・ポスト」は今月6日、「カンボジアで禁止されている10のこと」というタイトルの記事を載せた。禁止リストに挙げられている10の行為には、外国メディアやNGO(非政府組織)による有権者への選挙直前のアンケート調査、台湾・チベット国旗の掲揚などが含まれている。

途中省略

さらに目を引くのは、韓国に関連した項目があることだ。禁止リストの10番目は「韓国の男性との結婚禁止」だった。カンボジア政府は、韓国人男性と結婚する女性のほとんどが人身売買の被害者とみて、結婚を禁じたのだ。同国政府は、2010年にもこのような措置を取った。


⑥-2 韓国人女性を日本に送る国際組織が作成したマニュアル入手

Livedoor NEWS(2017.7.29、参考)

前半省略

3月22日、韓国警察は借金を抱える韓国人女性に売春を強要していたとして闇金業者3人を逮捕、ブローカーら10人と売春を行なった女性34人を書類送検した。この「売春組織」は日本をはじめカナダ、米国、オーストラリアなどに韓国人女性を送り込んでいた。

途中省略

「韓国警察庁が行なった2015年6~8月の調査によれば、この期間だけで515人が『国際売春事犯』で検挙されています」(同前)

慰安婦問題を声高に叫ぶ国家が「売春輸出大国」というのはブラックジョークというほかない。※週刊ポスト2016年4月29日号